じじぃの「歴史・思想_550_嘘の世界史・アンカリング効果」

アンカリング効果

安いものを先に見るとダメ? マーケティングで使われる「アンカリング効果」とは

2021/04/23 マイナビニュース
株式投資におけるアンカリング効果
株式投資を行う際に、銘柄の過去の情報を調べてから購入する方は多いです。
「過去〇年で△%上昇した」「上場〇カ月で△円上昇した」という情報をもとに、購入する場合などがそれに当たります。
証券用語で、「過去に1,000円だったのだから、今500円であるがいずれ上がるはずだ」と判断することを「高値覚え」といい、逆に下落したときの印象が強いあまり、銘柄を買えない心理になることを「安値覚え」といいます。
https://news.mynavi.jp/article/20210423-1833340/

『とてつもない嘘の世界史』

トム・フィリップス/著、禰宜田亜希/訳 河出書房新社 2020年発行

第1章 真実でないことの起源 より

情報の真空状態

私たちはなにやら、真実と嘘がなんらかの果てしない戦いを繰り広げていると考えがちである。だが、確かめる労力の壁にはばまれているせいで、たいていの場合、真実は戦場に姿をあらわすことさえない。世界は私たちが知らないことだらけで、情報が何もない「情報の真空状態」では、ガードが甘くなる。そんなときにまことしやかな情報が出てきたら、それを信じるに足る理由がなくても、やすやすと受け入れてしまいがちである。

これはすべて「アンカリング」として知られる認知バイアスと結びついている。アンカリングとは、それがどんな主題であっても、最初に聞いた話をしっかと脳に刻みこみ、ほかのどんな話よりその話をはるかに重い比重で信じやすいことだ。

ある特定の話題について適切な情報がないときは、つねにくだらない情報がその空白を埋めている。そして、ようやく適切な情報が姿をあらわしても、そのときは往々にして修正を拒むのである。

でたらめ伝播のループ

世界を自分だけで理解することはできない。誰もがほかの人たちを頼りにして情報を得ている。大勢の情報を合わせて世界をよりよく理解できるのはよいことだ。しかし、これには弊害もある。大きな弊害の1つは「でたらめ伝播のループ」である。
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こう考えてみよう。Aさんという人物が、ある間違った話をBさんとCさんにそれぞれ別の機会に伝える。Cさんはこの話の信憑性を疑っているが、(情報源は同じAさんなのに)Bさんも同じ話をしていることから、これを第2に別の情報量とみなし、この話は本当なのだと信じるようになる。話を信じたCさんがとっておきの面白い話があるよとこの話をDさんに話し、DさんがAさんに伝えると、Aさんはこれを自分の話が最初から正しかった証拠だとみなす。そのうちに、Eさん、Fさん、Gさん、Hさん、Iさんも同じ話を複数の人から耳にして、皆がその話を共通の知識として受け入れはじめる。この時点でJさんがためらいがちに「その話は本当に確かでしょうか?」と口をはさむと、ほかのアルファベットの人たちからすみやかに異端の刻印を推されるのだ。
よく知られた例を挙げると、信頼度が低いウィキペディアに書きこまれたデマを新聞社が取り上げると、その新聞記事はデマが本当だった証拠として、ネタ元のウィキペディアに載る、ということである。

希望的な観測

私たちの脳には、真実と嘘の振り分けをひどく苦手にさせている一群の動きがある。この働きをあらわす専門用語はたくさんあり、たとえば、<動機づけられた推論>や<確証バイアス>のような用語はすでにご存じかもしれない。こうした概念はすべて基本的に、私たちが何かを信じたいとき、その真偽は二の次になり、脳の優先順位のかなり下のほうにくるという事実に集約される。理屈はどうだってかまわないのだ。

利己心のわな

嘘が嘘だったとわかっても、真っ先に靴を履いて広められた嘘と同じくらいたやすく、真実の前に立ちはだかるものがある。私たちは単に自分が間違ったと認めたくないのだ。人間の脳は間違いを認めることを好まないため、間違ったかもしれないとわかることを拒む一群の認知バイアスがある。

単なる無関心

嘘にあらがう機会があっても、私たちはかならずしもあらがわない。何かが正しくても正しくなくても、たいしたことではないとやりすごすかもしれない(その嘘が自分にとって好ましい場合はとくに)。だが同様に、あらがっても無駄なので、どうせなら何もしないでおこうと決めこむかもしれない。

想像力の欠如

嘘は有利だが、数ある理由のうち最強の理由は、ただ単に、嘘のあらわれかたが無数で想定外であるために、そのすべてを把握できないことである。これは理にかなっている。結局のところ、私たちは本当だと言われたおおかたのことを、本当だと思って生きるしかない。そうでなければ、人の言うことをいちいち疑い、びくびくして生きるはめになる。だがこのことで、何かが本当でない可能性をはなはだ見くびりがちになる。何かをニューズで読んだら、それはおそらく本当だろうと信じる。誰かを信頼できそうだと思ったら、まさか詐欺を働くことはないだろうと考える。大勢が何かを見たと言ったら、何かかそこにあったのだろうと考える。どれを取っても、こうした当て推量は、私たちが思うほど信用できるものではない。
おしなべて、私たちは誤った情報にしかるべき注意を払ってこなかった。研究してもこなかったし、話題にもしてこなかった。その結果、誤った情報を目にしてもかならずしも認識するとはかぎらない。
本書の終わりまでには、そうでなくなることを願っている。