じじぃの「メッセンジャー・サイコロとヴァイオリン!中国・短編小説集『円』」

Einstein Theory of relativity


   

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劉慈欣(著)
すごいの一言に尽きる。いまさら言うまでもない『三体』の著者によるSF短編集。
私が好きなのは「地火」「郷村教師」「繊維」「メッセンジャー」「栄光と夢」「円円のシャボン玉」…半分近くじゃないか。絞れない。読んでいる時は難しくて好みじゃないな、と思った他の話も、目次を見返したら長所のほうが目に付いた。テクノロジーのこととか、分からないのに面白いってすごいな。そして素晴らしいSFって懐かしさを感じさせるのね。不思議。

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短編小説集『円』

劉慈欣/著、大森望、泊功、その他/訳 早川書房 2021年発行

メッセンジャー 信使 より

老人は、きのうはじめて、階下に聴き手がいることに気づいた。ここ数日、老人はひどく気分がすぐれず、ただヴァイオリンを弾くばかりで、窓から外を眺めることなどほとんどなかった。カーテンと音楽によって自身を外界から閉ざしたいと思っていたが、それはかなわなかった。
若いころの彼は、大西洋の向こうでせまい屋根裏部屋に暮らしてベビーカーを揺すり、特許局の騒々しいオフィスに出勤しては、退屈な特許申請書をめくりながら、同時にそれとはべつの魅惑的な世界に浸り、光の速さで思考をめぐらせていた。
……現在の彼は、都会の喧騒を離れた静かで小さな田舎町、プリンストンに住んでいるが、かつてのように超然と過ごすのではなく、外界の些事にいつも悩まされている。悩みの種は2つあった。
ひとつは量子論。マックス・プランクが創始して以来、多くの若い物理学者たちが熱心に量子論研究するようになっていたが、彼にとってはひどく不愉快だった。量子論の不確定性がことに気に食わず、最近の彼は、折に触れて「神はサイコロを振らない」とつぶやいている。自身が後半生を捧げた統一場理論については、数学的な中身はあるものの物理的な内容を持たない理論が構築されただけで、ろくに進展がなかった。
もうひとつの悩みは原爆だった。広島や長崎、さらには大戦さえもすでに過去の出来事になっている。しかし、神経が麻痺してなにも感じなくなっていた古傷が、いまさらのようにまた疼きはじめた。それは、じつに短くてシンプルな公式で、質量とエネルギーの関係を簡潔に記述したものにすぎない。実際、フェルミの原子炉が建設される以前は、原子レベルで質量をエネルギーに変換するなど突拍子もない話だと、フェルミ自身も考えていたくらいだった……。
秘書のヘレン・デュカスは、このところ彼を慰める機会が多い。しかし、老人が自分の功罪や栄辱についてではなく、それよりはるかに深刻な悩みを抱えていることなど知る由もなかった。
最近の彼は、眠っている最中にも、洪水や火山の噴火のようなおそろしい音をよく聞くようになっていた。
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青年はうなずき、窓の前に立った。外では天の川が夜空を覆い、星々がきらめいていた。その壮麗な光景をバックに、青年の姿は黒いシルエットになっていた。
いまようやく、これがいったいどういうことなのか、老人にもすこしずつわかってきた。青年の摩訶不思議な予知能力は、実際にはしごく単純な話だった。青年は未来を予知していたのではなく過去を思い出していたのである。
「わたしはメッセンジャーです。われわれの時代が、教授の心痛を見るに見かねて、わたしを派遣したのです」
「では、いったいどんなメッセージを携えてきたんだね? このヴァイオリンがそのメッセージか?」老人はまったく驚かなかった。彼の人生にとっては、宇宙こそが、ただひとつの大いなる驚異だった。だからこそ彼は、ほかのだれよりも早く、宇宙のもっとも奥深くにある秘密を垣間見ることができたのだった。
「いいえ、このヴァイオリンは、わたしが未来から来たことを証明するための道具にすぎません」
「どうやって証明するんだね?」
「この時代の人々は、質量をエネルギーに変換することを可能にしました。それが原子爆弾であり、まもなく完成する水素爆弾です。一方、われわれの時代には、エネルギーを質量に変換することが可能になっています。ほら」青年はヴァイオリンの弦を指さした。「太くなっているでしょう。増えた質量は、教授が弾いたときに発生する音波エネルギーが変換されたものです」
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「さあ、未来から来た子どもよ。きみはなにかメッセージを携えて来たんじゃないかね?」
「メッセージは2つです」
「ひとつめは?」
「人類には未来があります」
老人はほっとして肘掛け椅子に背中を預けた。人生最期の宿願にけりをつけたすべての高齢者と同じように、全身が心地よい感覚に満たされ、ほんとうの安らぎを手に入れた。「若者よ、きみと出会ったとき、すぐそのことに気づくべきだったよ」
「日本に投下された2発の原子爆弾は、人間が実戦で使用した核爆弾としては最後の2発になります。今世紀の90年代末には、ほとんどの国が核実験と核拡散防止の国際条約に署名し、その50年後、人類にとって最後の核爆弾が破壊されました。私はその200年後に生まれたのです」
青年は回収しなくてはならないヴァイオリンを手にとった。「そろそろ行かなくては。教授の演奏を聴くために、すでに多くの計画を無駄にしてしまいましたから。わたしはあと3つの時代で、5人の人物に会わなくてはなりません。そのなかには統一場理論の確立者がいます。教授から100年後のことですがね」
青年が口にしていないことはまだあった。いつの時代でも、偉大な人物と会うときには、先が長くない人物を選ぶということだ。そうすれば、未来への影響は最小限で済む。
「ではきみが携えてきた2つめのメッセージは?」
青年はもう玄関のドアを開きかけていたが、ふりかえって、申し訳なさそうに微笑んだ。

「教授、神はサイコロを振りますよ」