じじぃの「いかに生きるか・忘れ物をしても無くならない国・古き良き日本?倫風」


『倫風』 2022年2月号

実践倫理宏正会

わからずや漫筆  普通のことにあらず 【執筆者】林望 より

あれはもう何年前のことになるだろうか。
私は中央高速のパーキングエリアでトイレに入り、そこで財布を落っことしたことに気付かず、そのまま帰宅してしまったことがある。帰ってきて、ふと財布がないことに気付き、その日立ち寄った出先に片端から電話を掛けて、かくかくしかじかの財布が置き忘れていなかっただろうかと尋ねてみたが、みな徒労に終わった。
さあ、こまった。現金はともかく、そこに入れてあるカードなどを取られると、ことはひどく面倒になる。
こうなると、どこかで落としたが、掏摸(すら)れたかに違いない。どうしたものかと途方に暮れていると、まもなく、八王子警察から連絡があった。財布の落とし物が届いているので、取りに来るように、というのだ。やれ嬉しやと、すぐに警察署に出向いて財布を受けとることができたのだが、調べてみると、小銭1枚なくなっていない、まさに落としたままきれいに警察に届いていたのである。トラックの運転手をしているこれこれという方が届けて下さったのだとわかった。
もちろんしかるべきお礼をし鄭重(ていちょう)に感謝を伝えたのであったが、思えばこんなことが起こるのは、たぶん日本だからであったろうと、つくづくありがたく思った。
そういう経験をして、日本が好きになったという外国人の話は、幕末明治の時分から幾多(いくた)記録されているけれど、じっさい、人のものを盗(と)ってはいけない、というこの単純無比なる道徳律が、日本ではかなり正直に守られていることは、世界に誇るべきところであろうと思う。
むかしロンドンに住んでいたときのことだ。私はシティ近くのレストランでランチを食べた。そのとき、ちょっと買い物をした紙袋を椅子の横に置いて食事をし、終わってさっと店を出たところで、その紙袋を席に忘れてきたことに気が付いた。あわてて取って返したが、椅子のわきにはもうなにもなかった。
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しかるに近頃は、農村などでも、収穫寸前の高級葡萄が一夜で何万房と盗まれたり、あるいは牛何十頭も盗んでいって自分たちで解体して売りさばくなどという、従来は考えられなかったような犯罪が、日本各地でわりあいに頻々(ひんぴん)と発生するようになった。
日本人の道徳観が変質劣化してしまったのだろうか。それとも、外国人が急速に増えたことと関係するのだろうか。

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どうでもいい、じじぃの日記。
「ピンポーン!」
「また、雑誌持ってきました」
小太りのおばちゃんが、今年になってもやってきた。
「今週、2回も来たのよ。風邪でもひいているのかと心配した」
「この頃、寒いので夕方早くから風呂入ったりしてたから」
「紙に電話番号書いたから、何かあったら電話して」

パラパラと『倫風』 2月号を読んでみた。

「やれ嬉しやと、すぐに警察署に出向いて財布を受けとることができたのだが、調べてみると、小銭1枚なくなっていない、まさに落としたままきれいに警察に届いていたのである」

私は約13年前、神奈川の藤沢から千葉の東金に引っ越してきた。
その頃、総武線の電車内に財布を落とした。
その日のうち、国鉄の駅から電話がかかってきて取りに行ったが無事に財布が戻ってきた。
私は去年、後期高齢者(75歳)になった。
車の運転が下手で、駐車場の駐車枠内にきちんと駐車できるのはマレだ。
この前、駐車場のコンクリート・ブロックに後ろバンパーを引っ掛けてしまった。
昔は真夜中、車で人をはねたとき、ちゃんと人間らしい行動ができるだろうかと、よく自問した。
たぶん、今は人間らしい行動をとれるだろうと思う。
これから、先のことが見えてきたので、今さらジタバタしてもという心境だ。
75歳は死へのグラデーションの始まりらしい。