じじぃの「歴史・思想_516_歴史修正主義・マルクス主義」

[昭和34年9月] 中日ニュース No.297_1「招かれたフルシチョフ首相」

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EDhxrmprN-8

国連でフルシチョフは靴で机を叩いたか?

ソ連時代の神話を検証する:国連でフルシチョフは靴で机を叩いたか?

2018年10月11日 ロシア・ビヨンド
最も個性豊かなソ連指導者の一人、ニキータ・フルシチョフは、「迷文句」や衝動的なジェスチャーで有名だった。
だが、それらはどれも、彼が1960年の国連総会の壇上で靴を叩きつけたほどのものではなかった。が…これは実は作り話なのだ。神話誕生の舞台裏を探る。
https://jp.rbth.com/history/80995-kokuren-de-furushichofu-ha-kutsu-de-tsukue-wo-tataita-ka

ドレフュス事件

世界史の窓 より
フランス第三共和政下での反ユダヤ主義による陰謀事件。1894年、ユダヤ系軍人がドイツのスパイとして告発されたが、無罪を主張。裁判で背後の軍部・教会の反ユダヤ主義が批判され、結局1906年に無罪となった。それによってフランスは共和政体と基本的人権、民主主義が守られた。
1894年10月、第三共和政のフランスで、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイの嫌疑をかけられ、本人は無罪を訴えたが、軍法会議で有罪となり、無期流刑となった。この裁判をめぐってフランスは国論が二分され、判決にユダヤ人に対する差別があるとして再審を求める共和派と、判決を支持する軍部・教会などの王党派が激しく議論を戦わした。
中でも作家エミール=ゾラが1898年に『私は弾劾する』を発表してドレフュスを弁護した。ようやく1899年に再審となったが、再び有罪を宣告され、大統領特赦で出獄した。結局、1906年、ドレフュスは無罪となった。19世紀末のフランスにおいても、反ユダヤ主義が根強く存在することを示した事件でもあった。 
https://www.y-history.net/appendix/wh1401-076.html

中公新書 歴史修正主義 - ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで

武井彩佳(著)
ナチスによるユダヤ人虐殺といった史実を、意図的に書き替える歴史修正主義ホロコースト否定論が世界各地で噴出し、裁判や法規制も進む。
100年以上に及ぶ欧米の歴史修正主義の実態を追い、歴史とは何かを問う。
序章 歴史学歴史修正主義
第1章 近代以降の系譜―ドレフュス事件から第一次世界大戦後まで
第2章 第二次世界大戦への評価―1950~60年代
第3章 ホロコースト否定論の勃興―1970~90年代
第4章 ドイツ「歴史家論争」―1986年の問題提起
第5章 アーヴィング裁判―「歴史が被告席に」
第6章 ヨーロッパで進む法規制―何を守ろうとするのか
第7章 国家が歴史を決めるのか―司法の判断と国民統合

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歴史修正主義

武井彩佳/著 中公新書 2021年発行

第1章 近代以降の系譜―ドレフュス事件から第一次世界大戦後まで より

近代国家における歴史修正主義は、19世紀末のヨーロッパ社会で政治との強いつながりのなかで生まれてきた。「修正」という言葉が明白に政治的な意味合いを帯びて登場したのは、19世紀末フランスのドレフュス事件である。

マルクス主義の「修正」――ベルンシュタインからフルシチョフまで

ドレフュス事件フランス第三共和政下での反ユダヤ主義による陰謀事件)の後、「修正主義」という言葉が政治の場で一つの勢力、イデオロギー的な「派」として認識されるようになったのは、20世紀転換期の社会主義思想のなかでであった。
19世紀末、ヨーロッパの社会主義者マルクスの革命論に基づいて、貧困化したプロレタリアートが増加することにより階級闘争が激化し、ブルジョア社会は必然的に崩壊して革命に至るだろうと考えていた。しかし、ドイツ社会民主党のエデュアルト・ベルンシュタン(1850-1932)は、実際には労働者の貧困化は起こっていないため、資本主義の崩壊という前提での議論は誤っており、この予測に基づいて社会社会民主党の戦術を立てるべきではないと主張した。マルクス主義原則への固執は時代の状況に合っておらず、むしろこれを改良することで社会主義の実現を目指すとしたのだ。
こうしたベルンシュタンの主張は、カール・カウツキー(1854-1938)やローザ・ルクセンブルク(1871-1919)といった社会民主党内の理論家から批判され、1899年の党大会ではベルンシュタンを非難する演説が4日間にわたり行われた。同時に社会民主党は、党の基本原則や要求を変更する理由は何もないとする決議を圧倒的多数で可決する。
こうして原理原則を守ろうとする主流派に対し、修正や改良を求める者が侮蔑的に「修正主義者」と呼ばれるようになる。これ以降、「修正主義」は相手を非難し、その正当性を否定する際の言葉として使われるようになった。
現に共産主義体制下では、修正主義者という言葉で非難合戦が繰り広げられた。
まず労働者による「世界革命論」を掲げるトロツキーは、ロシアだけでも社会主義の建設は可能としたスターリンの「一国社会主義論」を修正主義として批判した。だが、逆にスターリンから修正主義者と位置付けられ、権力闘争で敗北する。またユーゴスラビアのチトー大統領はスターリンフルシチョフから修正主義者と批判されたが、そのフルシチョフ毛沢東からは修正主義者と呼ばれた。
このように、政治の場における「修正主義」という言葉の使われ方には、すでに否定的な意味合いが込められている。

言説の需要と供給

ハリー・エルマー・バーンズ(1889-1968、アメリカの歴史家。自由主義の定期刊行誌『Rampart Journal』に投稿した記事で、連合軍が枢軸国に対する戦争を正当化するためにナチスの残虐行為を誇張したと主張した)の歴史観の変遷を見ると、大学の歴史講座の教科書として使われた本を執筆していたような人物が、なぜ非合理的な思想に陥っていったのか疑問を抱く。たしかにバーンズは極端な主張を好み、論争を厭(いと)わない人間であったが、それでもある時期までは学問の一定のルールに従っていた。ではなぜ彼は脱線したのか。これはバーンズの世界観の問題なのだろうか。それともその主張に賛同する人々が、彼の言説に流通経路を与えたからか。
実は、バーンズに対する評価は、立場によってかなり異なる。バーンズは権力が真実を覆い隠すという理解から、政府による検閲に反対し、資料の公開を求め、言論の自由を主張したため、当初はリベラル派だと受け止められていた。
同時に、ローズヴェルトハリー・トルーマンといった大統領は、アメリカを世界大戦へと導き、続く冷戦下で世界の警察官に仕立て上げた張本人と非難した点では、反戦や反軍拡という意味で左派的な性格も持っていた。このためバーンズは、いまでも一部では平和主義者としての評価さえある。ただし、彼の反戦姿勢は、戦争の背景にユダヤ人の銀行家を見る点で、左派的な反ユダヤ主義とも通底していた。

他方でバーンズは、ドイツの戦争責任の否定ではドイツの右派や保守派と親和性があり、ホロコーストの矮小化ではネオナチなどの極右と意見をともにした。いまもバーンズは「歴史修正主義の父」として扱われ、その著作はネット上で出回っている。

つまり、バーンズはさまざまな方面で思想的にも政治的にも、それぞれに異なる集団から「部分的」に評価されている。バーンズの言論の消費者は、言論者としてのバーンズを全体として評価することはしない。自分の世界観や政治信条と合致する言葉だけを、バーンズのなかに求めるのである。
これに対して、バーンズも、自分の言説の「顧客」に対して、彼らが喜ぶような商品を提供しようとした。つまり、バーンズの言説とその受け手のあいだには需要と供給の関係性があり、むしろ需要が供給される言説の中身を決定していくのである。