じじぃの「戦場にかける橋・クワイ河の捕虜・日本は同調圧力の強い国?イギリス人は​おかしい」

The Bridge on the River Kwai (1957) Trailer #1 | Movieclips Classic Trailers

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PDVjulgOjrE

映画 『戦場にかける橋』

戦場にかける橋:作品情報

1957年12月25日 映画.com
ピエール・ブールの同名小説を名プロデューサー、サム・スピーゲルと巨匠デビッド・リーンのコンビで映画化した戦争大作。
第2次世界大戦下の1943年、ビルマとタイの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、捕虜となったイギリス人兵士と、彼らを利用して橋を造りたい日本軍人たちの対立と心の交流を描く。出演はウィリアム・ホールデンアレック・ギネス、早川雪舟。57年度のアカデミー賞では作品賞、監督賞を含む7部門で受賞した。
https://eiga.com/movie/46213/

『イギリス人はおかしい』

高尾慶子/著 文春文庫 2001年発行

クワイ河の捕虜と日本人通訳 より

通訳永瀬隆氏の苦悩

1995年、8月15日の英国のテレビは、どのチャンネルも、これでもか、これでもかとばかり、日本陸軍が東南アジアで犯した、連合軍捕虜に対する虐待のドキュメンタリー・フィルムで覆いつくされた。それと、日本の村山富市首相の、日本軍が東南アジアを侵略したことへの謝罪のニュース。ところが多くの英国の旧軍人たちは、村山首相の謝罪は、村山氏個人のものであって、日本という国家ならびに旧日本陸軍の謝罪ではない、として容認しなかった。
一方、もうひとつのテレビのニュースは、私を懐かしい思いへ駆り立てた。それは、現在、倉敷市に住んでいる永瀬隆氏の姿が画面に映し出されたからである。永瀬氏と私は、私が日本にいるとき、なん度も電話で語り合い、文通も続けていた。
永瀬氏は、あのクワイ河に橋を建設しようとした日本陸軍側の通訳だった。彼は当時の敵国の捕虜の言葉を解したがために、通訳を命じられた。
当時も、そしていまでもだが、西洋社会で理解されない日本的な理屈を、捕虜といえども違う道徳観や思想の人々に、上から命令されて伝えるという役には、想像を超える苦労があったと思う。
とくに、当時の日本から外へ出たこともないような士官が、伝統も習慣も環境も違う他国民に向かって、日本人にしか通らない理屈を押しつけることを命令し、それを個人の意見や感情を入れることもできずに通訳するというのは、大変な努力と苦痛をともなったと考える。
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日本人は敵の捕虜になることを、最大の恥辱と教えられていた。そして、自分たちの考える恥辱が西洋人にもあてはまると思った。この日本人的な考え方が、半世紀過ぎた今日までも、日本人の意図とは反対に、日本という国家が「恥すべき国家、残虐な国家」であるという汚名をこうむり続けなければならなかった原因であると私は思う。
日本人は降伏するぐらいなら死ねと教えられていた。西洋人は降伏しても生き延びろと教えられている。とくに上官は、部下を生きて故国に帰還させる義務がある。その違いが、あの戦時下での悲劇の原因の1つでもあった。日本軍は日本的な精神を敵の捕虜に押しつけようとした。そのギャップが、50年経た今日でも埋まっていない。
永瀬氏はこのギャップの狭間(はざま)で苦悶した。
戦争が終わって30年後、戦友の墓参のためにタイを訪れた永瀬氏は、クワイ河湖畔で旧敵国の兵士と偶然に再開した。再開の場で、彼に元英国人捕虜から渡されたものがあった。
それは、英国で出版されたレオ・ローリングス氏の著書『クワイ河架橋の建設工事における日本軍の捕虜虐待』だった。画家でもあるローリングス氏が捕虜時代に隠し描いていた日本軍隊の残虐行為のスケッチ集である。のちに私はローリングス氏とも文通するようになり、彼から英国版の原書を贈られた。
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日本陸軍の犯した行為を認めることが、旧敵国捕虜への鎮魂になると考えた永瀬氏は、自営の仕事も放って、翻訳に没頭した。事実をありのまま、戦争を知らない若い人々に知らせ、また、戦争を知っている人々に、南方で、また極東で、日本軍がおこなってきた事実を思い出してもらうために、反省と謝罪を込めて訳し進めた。
やがて、それは現代教養文庫の1冊として『イラスト クワイ河捕虜収容所――地獄を見たイギリス兵の記録』というタイトルで、社会思想社から出版された。日本にいたとき私はその地味な文庫本を何気なく買った。そして、読んでいくうちに、涙をこらえなれなくなった。
私の元の夫の父の世代は、この日本陸軍にいたぶられ、拷問を受け、日本刀で首を切り落とされた人々なのだ。あのやさしい義父が、もし、日本軍の捕虜になっていたらと想像してゆくうちに、私はもういたたまれなくなってきた。

日本招待を受けた元英軍捕虜

私の父は、真珠湾攻撃の1941年の暮れ、満州(いまの中国東北部)に送られたが、演習中に足に傷を負って戦火の真っただかに日本に帰され、終戦になる前に私の妹をもうけている。だから、たいした戦功を立てる時間はなかったと思うのだが、勲章をもらっていることからすると、わずかの期間に1人ぐらい中国人を殺してきたのかもしれない。父が中国人を呼ぶとき、チャンコロといい、満州にいたロシア人をロスケと呼び、英米人をいまでも毛唐と呼ぶことからもわかるように、日本陸軍の兵隊は、当時の敵国人をさんざんいたぶってきたのだろう。
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永瀬氏は、ローリングス氏の訳書の日本での出版を機に、60歳を過ぎた氏を日本へ招待した。思いがけない旧敵国への訪問をローリングス氏は快く受けた。氏は著書の中で、また私への個人的な手紙の中で、「無事に生き延びて英国へもどったら、生の続く限り日本と日本人をけっして許すまいと決めていた」と書いていた。
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氏の著書は、現在、ロンドンはランベス戦争博物館に収められていて、イスラエルナチス収容所の惨劇のドキュメンタリー・フィルムや写真集、広島の原爆博物館の記録写真集と同じように、世界の3大戦争悲劇のシンボルになっている。
1995年は終戦50年目に当たり、永瀬氏は、再び、タイのクワイ河クワイ河鉄橋での日英合同の墓参とメモリアルの式典に出席し、かつての英軍捕虜に再会した。その模様は、英国4つのチャネルのニュースで1日中取り上げられた。日本で永瀬氏にお目にかかることなく、私は、再び英国へ戻ってきてしまったが、テレビで見る永瀬氏は私の想像通りの人物だった。
戦後、もう何度も元英軍捕虜と会って、彼らと馴染みになっているのか、会うなり、「こんにちは!」と彼らに日本語で挨拶したあと、「こんにちはだって! ハローだよな」と自分であわてて照れながらひとりごとをいっていたのがおかしかった。
そのあと、英国の人々も永瀬氏に駆け寄り、大きな白熊さんは小さな蟻さんを抱きしめた。戦争をしなかったら、人間は人種を越えてこうして愛し合えるのに。
英国は今では私の息子の国。私の死んだ息子にとって、日本の祖父の国と英国の祖父の国との間で、壮絶な戦いと憎しみがあったなんて信じられないだろう。
私は、今年で英国へ戻ってきて9年目になるが、まだ、ハートフォードシャーのローリングス氏を訪ねてはいない。
蛇足ながら、映画『戦場にかける橋』で使用された英軍軍歌「ボギー大佐」の作曲家ケネス・アルフォードは、私の別れた夫の遠縁に当たる。私もかつてはミセス・アルフォードと呼ばれていた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
少し古い本だが、高尾慶子著『イギリス人はおかしい』という本に「クワイ河の捕虜と日本人通訳」というのがあった。

「日本人は降伏するぐらいなら死ねと教えられていた。西洋人は降伏しても生き延びろと教えられている。とくに上官は、部下を生きて故国に帰還させる義務がある。その違いが、あの戦時下での悲劇の原因の1つでもあった。日本軍は日本的な精神を敵の捕虜に押しつけようとした。そのギャップが、50年経た今日でも埋まっていない」

最近読んだ小冊子に、こんなことが書かれていた。
「日本は島国という地理的な条件や長い歴史もあってほかの人と同じ行動・考え方を選択したり、他者にも望む傾向があります。いわゆる『同調圧力』が強いのです。また、他国の人を容易に受け入れない傾向もあります。現在でも、法律・制度的にも、他国の人たちが生活するにはかなり困難な社会といえます」
日本は他の国に比べて、「同調圧力」が強い国なのだという。
まあ、同調圧力が強いから、新型コロナもこの程度で済んでいるのかもしれない。
「蛇足ながら、映画『戦場にかける橋』で使用された英軍軍歌『ボギー大佐』の作曲家ケネス・アルフォードは、私の別れた夫の遠縁に当たる。私もかつてはミセス・アルフォードと呼ばれていた」
映画『戦場にかける橋』は私が今まで観たなかで、一番印象深く残っている作品です。