戦場にかける橋 予告編
ビルマの密林をいく日本軍
南方での終戦前夜 【執筆者】会田雄次 より
8月13日(昭和20年)だったと思う。私たちは後方の補給部隊へ砂糖や塩干魚や石鹸などをとりに出発した。途中で一泊、補給隊で一泊、帰りに一泊という旅である。
その日、(ビルマの)ジャングルのなかに敵の飛行機からまいた「陣中新聞」が落ちていた。週刊誌よりやや大きいニュー・デリー発行の写真入りの宣伝紙である。私たちは今までもこれでニュースを知ってきたのだ。こっそりひろって見る。大阪の爆撃の写真、それに女と子どもが奇妙な日本風の風呂に入っている写真が刷られていて、サイパンの全員玉砕はウソで、捕虜たちはこのようにたのしく生活をおくっていると説明がついている。ソ連の参戦と日本の無条件降伏の近いことも書いてあった。原子爆弾のことはふれてなかったように思う。こんなものを持っていて見つかったら、どんな目にあうかわからない。私はそれを破って棄ててしまった。いまから考えるとまったく悔しい。いい記念になったのにと思う。それにずっと前からよく撒かれていた英軍第一線の「通行証」もとっておけばよかった。これは、うらに英語で、この男は英軍に協力しようとする善良な人間であるから、尊重に取り扱えという意味のことが書いてあった。
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こういう状態では、戦争が終わるらしいときいてやれやれと思ったのも仕方がなかったろう。全面降伏なら私たちも英軍に投降することになるが、いわゆる捕虜の汚名をきないですむだろう。殺されるかもしれないが、生きられる可能性の方がやはり大きそうである。そうすると、もう完全に近いほど諦めていた日本の土がふたたびふめるかもしれない。父や母や家族と会えるかもしれない。日本全土は焼土と化しているかもしれないが、家族そのものは何だか昔のままの姿で生きて待っていてくれるような気がする。
私たちは急に狂ったような激しい郷愁にとらわれた。寺の床に寝ながら、みな昂奮していた。家の思い出が日々に語られる。ふと誰かが、もうすぐ大文字の送火だ、今年などはとてもやれないだろうがと口に出した。それを聞いたとたん、私の脳裏に家族一同2階からそれを見たときのこと、それも幼いときの思い出が突然目にしみるような鮮烈さで浮かび上がってきた。涙がどっとあふれてきて、ポタポタと床の上に流れ落ちた。
翌日、食糧の塩干魚や砂糖や石鹸などをうけとって夜おそく私たちはふたたびこの寺へたどりついた。8月15日の夜である。
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しかし私たちの心は昨日よりも急に重くなった。無条件降伏という意味が重くのしかかってきたのだ。私たちは降伏する。武装解除、捕虜、収容所、それまではたしかだ。それからどうなる。敵兵の復讐や私刑にあうかもしれない。強制労働は間違いない。私たちがビルマへ輸送されるとき見たやつれはてた英軍捕虜の姿が目に浮かぶ。おとろえきったこの身体で、銃剣で追いまわされる労働にたえることができるだろうか。うまくゆけば日本へ帰れるかもしれないが、帰れる日本があるだろうか。
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じじぃの日記。
『この国で戦争があった』に【執筆者】会田雄次の「南方での終戦前夜」というのがあった。
約30年前、月刊誌『諸君!』とかいう雑誌をよく読んでいた。
その本に会田雄次さんが書かれた記事をよく読んだ。
何が書かれていたかは忘れたが、読んで刺激を受けたのは確かだ。