じじぃの「おらと同じ郷里のお方です・あきたこまち・秋ノ宮!菅義偉の正体」

菅義偉 自由民主党総裁選挙出陣式


菅義偉

ウィキペディアWikipedia) より
菅 義偉(すが よしひで、1948年〈昭和23年〉12月6日 - )は、日本の政治家。
自由民主党所属の衆議院議員(8期)、内閣総理大臣(第99代)、自由民主党総裁(第26代)である。
【生い立ち、政治進出するまで】
秋田県雄勝郡秋ノ宮村(後に雄勝町秋ノ宮を経て現・湯沢市秋ノ宮)中央部旧国道沿いに実家があった教員一家で、イチゴ農家の長男として生まれる。現住所は神奈川県横浜市神奈川区金港町1丁目。
家族は父、母、姉2人、弟1人。父親である菅和三郎(中国語版)は第二次世界大戦末期、南満州鉄道職員として当時満州国(現在の中国東北部)の首都だった通化市で日本の降伏を迎えた。引き揚げ後、郷里の秋ノ宮で農耕に従事。「秋の宮いちご」のブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任。2010年(平成22年)に92歳で死去すると、旭日単光章を叙勲されている。母や叔父、叔母は元学校教員であり、2人の姉も高等学校教員となった。
雄勝町立秋ノ宮小学校(現・湯沢市雄勝小学校)卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現・湯沢市雄勝中学校)に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。
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上京から2年後に「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学する。なお、複数の週刊誌等で第二部(夜間学部)の出身であると報じられることがあるが、菅本人が2016年のインタビューで「メディアで二つくらい、法政の夜間卒だと書いているのがありましたが、昼です」と述べており、実際には第一部(昼間)の出身である。
法大在学中には実家から仕送りも受けつつ、警備員や新聞社、カレー屋のアルバイトで生活費と学費を稼いでいた。一方で、大学の空手道部に4年間所属し、三段の段位を取得している。1973年、法政大学法学部政治学科を卒業し、建電設備株式会社(現・株式会社ケーネス)に入社した。

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菅義偉の正体』

森功/著 小学館新書 2021年発行

はじめに より

平安時代六歌仙小野小町を生んだと伝えられる東北の農村は、のちに「あきたこまち」というブランド米を売り出し、米どころとして有名になった。東の奥羽山脈と西の出羽丘陵に囲まれた広い盆地は寒暖差が大きく、それゆえ四季の自然が映える。夏は萌えるような田園の緑が眩しく光り、役内川の清流をヤマメやアユが泳ぐ。子供たちは暗くなるまで川遊びに夢中になり、農作業に疲れた住民が疲れを癒すために湯治場に集(つど)った。
しかし冬になると、白く冷たい静寂が一面の大地を支配し、ひとびとの生活は一変する。家々の屋根は、ずっしりとした雪の重みに必死に耐え、底冷えのする寒さが住む人の心を暗くする。東北屈指の豪雪地帯に除雪のためのディーゼルが走るようになったのは、高度経済成長期に入ってからのことだ。それまでこのあたりの住民は身動きが取れず、家に閉じこもった。
菅義偉(すがよしひで)が生まれ、少年時代を過ごした秋田県雄勝郡秋ノ宮村は、そんな自然の恵みと厳しさを併せ持っている。現在は湯沢市となっているが、新潟県の越後湯沢とよく似ている。菅の生まれ故郷である秋ノ宮やその周辺が米どころと呼ばれるようになったのは比較的新しく、第二次世界大戦前までは農業に適した地域とも言いがたかった。
それゆえ戦中は、大勢の村人が日本政府や関東軍にそそのかされ、新たな開墾地を求めてマ満州に渡った。全国の農村から渡満して入植したそんな人たちは満蒙開拓団と呼ばれ、秋ノ宮の村人たちもまた地名にちなんだ「雄勝郷開拓団」を結成した。そうした開拓団の人たちは満州終戦を迎えた。
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菅の父や母もまた、新天地を求めて満州に渡った口だ。父親は南満州鉄道(満鉄)に職を求め、叔母たちは農民として入植した。雄勝郷開拓団たちと同じような体験をしている。そうして菅一家はまさに満州の悲劇に居合わせ、運よく命が助かった。
戦後、菅一家はいちご栽培を始め、暮らし向きに困ることはなかった。反面、復興の著しかった都市部に比べ、雪深い生まれ故郷は、さほど豊かにはならなかった。菅が少年時代を送った終戦から高度経済成長の走りまで、多くの家庭では、冬になると一家の主が東京に出稼ぎに行き、妻や子供が留守を預かってきた。中学を卒業した生徒の大半が、集団就職のために夜行列車で上野を目指した。
いちご農家の息子である菅本人は、中学を出ると、地元の秋田県立高校に進んだ。冬は雪で道路が閉ざされ、学校には通えない。そのため、高校の近くに下宿し、高校を卒業後に東京。板橋の段ボール会社に住み込みで働き始めた。
中学や高校の幼馴染たちは、成人としてしばらくすると、郷里の秋田に戻ってくるケースが多い。いわゆるUターン組であり、秋田で農業を継いできた。
だが、菅はそこから大学に入り、政界に足を踏み入れた。やがて保守タカ派の政策で安倍晋三と意気投合し、信頼を得る。言うまでもなく安倍は戦中、満州国国務院実業部総務司長として、満鉄をはじめとする満州の産業振興に携わった岸信介の孫であり、祖父を尊敬してやまない。ともに戦争体験はないが、2人は互いに惹かれる何かがあったのかもしれない。
そして菅本人は、第二次安倍晋三内閣における官房長官という政権ナンバーツーの地位にまで昇りつめた。
「いっさい失言をしない切れ者の政府スポークスマン。世に聞えた過去の名官房長官と比肩しても劣らない」
政治部の評論家の多くは菅をそう評し、その政治手腕を高く買ってきた。国会議員は与野党問わず菅の手腕を認め、霞が関の官僚やマスコミまでもが、菅を持ち上げ、いつしか菅は「政権をコントロールする影の総理」とまで呼ばれるようになった。安倍政権に欠かせない存在だとされ、自民党内では、他の政治家を寄せつけないほどの存在感を見せつけてきたといえる。
政治家としての菅自身は、東北訛りの抜けない朴訥な語り口に似合わない強面(こわもて)のように感じる。

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どうでもいい、じじぃの日記。
2020年9月16日、おらの秋ノ宮から総理大臣が出た。
菅義偉さんのことをネットで調べてみた。
樺山発電所付近
父親:菅和三郎
出身地:秋田県雄勝郡
秋田県湯沢市秋ノ宮堰ノ口
長女:1944年長女純子さん
https://oyakudachi2525.com/2020/09/03/suga-yoshihide-kazoku/
なんと、おらの家から菅義偉さんの家までの距離は約300メートルだ。
通った学校も、秋ノ宮小学校、秋ノ宮中学校、湯沢高校と同じだ。
おらの親父が務めていた樺山発電所菅義偉さんの本家の菅喜一郎さんが初代の所長だったとか。
おらの家は床屋をやっていたが、父親の菅和三郎さんはお得意様だったとのこと。
おらと菅義偉さん(昭和23年生まれ)とは2歳違いでおらのほうが年上だ。
菅義偉さんは、いちご農家の息子。
そういえば、でんかい(山の名前)の斜面にたくさん、いちご畑があったなあ。