じじぃの「歴史・思想_501_思考地図・最終章・未来・予測とは芸術的な行為である」

Emmanuel Todd 28 minutes ARTE

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1QScVja3IUI

思考から予測へ 3つのフェーズ

エマニュエル・トッドの思考地図」読後感

2021年02月08日 のとみいの日記
エマニュエル・トッド氏のインタビューを本にした『エマニュエル・ドトッドの思考地図」をKindleで読了。
リアル本屋で見ていて見つけた本。
http://blog.livedoor.jp/shinkozo/archives/57654392.html

筑摩書房 エマニュエル・トッドの思考地図 エマニュエル・トッド 著 大野舞 訳

【目次】
日本の皆さんへ
序章 思考の出発点
1 入力 脳をデータバンク化せよ
2 対象 社会とは人間である
3 創造 着想は事実から生まれる
4 視点 ルーティンの外に出る
5 分析 現実をどう切り取るか
6 出力 書くことと話すこと
7 倫理 批判にどう対峙するか
8 未来 予測とは芸術的な行為である
https://www.chikumashobo.co.jp/special/emmanuel_todd/

エマニュエル・トッドの思考地図』

エマニュエル・トッド/著、大野舞/訳 筑摩書房 2020年発行

8 未来 予測とは芸術的な行為である より

サービスの経済化が進むと、価値の非――物質化が起きます。それはたとえば、弁護士が想像を絶するような高額をアドバイス料として求めると、それもGDPにカウントされるというようなことからもわかります。ちょっとした診察に高額を支払わされるのも同様です。これもGDPに入るわけです。サッカー業界の収益はGDPに入りますが、その桁違いの額のお金がサッカーのスター選手たちの給料として流れていきます。こうしてみると、もうなんの話(ここまで経済指標について説明してきた)をしているのかわからなくなってきます。

ウイルスが明るみに出したもの

そんななかで新型コロナウイルスが流行し、死が迫ってきました。それによって、このシステムは機能しなくなったのです。私の研究対象である先進諸国に限ってですが、どの国もこのウイルスの攻撃に次々と対応を迫られたのです。
そして何が見えてきたのか。それは経済指標を取っ払った現実です。これはある意味悲劇なのですが、研究者としては夢のような状況とも言えます。研究的な意味で、現時点で問題があるとしたら、それはこのコロナウイルスが現在進行形であり、またさまざまな国を襲ったものの時間的にもずれていたために、最終的なデータというのがまだないという点でしょう。
それでもとにかく、この5月の段階で、私はエクセルで表を作り始めました。この表は、10万人当たりの人口死亡率をさまざまな関数に結びつけることことができるものです。利用している関数としては、たとえば工業化に関するものや、乳児死亡率など人口学的な関数があります。GDPによって計算される生活水準もその1つです。さらに、人類学的な関数としては、家族構造や男性、女性の地位などがあります。これらによって、スキャンしたようなかたちで先進諸国の社会を描き直すことができると思います。
その作業はまだ完了したわけではありませんが、それでもすでに結果はある程度見えてきています。新型コロナウイルスが多くの人々を殺したというだけでなく、その通り道も見えてきています。
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そして高齢者、この感染症はフランスでは死亡者の80%が75歳以上なのです。
これはつまり、普遍的にすべての人を同じように襲う病気ではないということです。高齢者は特にこのウイルスに対して弱いのですが、それもすべての高齢者ではありませんでした。というのも、それこそ社会階級ごとに、その生活水準ごとに死に対するリスクに違いがあることが明確になってきたからです。こうしてウイルスは社会の不平等をもスキャンしてみせていったのです。たとえばアメリカでは黒人のほうが白人に比べて2倍も被害にあっているということからも、それがわかります。また、フランスで最も貧困率が高いセーヌ・サン・ドニ県や、経済面で大きなダメージをこうむってきた北東部では、他の地域に比べて被害が大きいのも説明がつくわけです。

思考から予測へ――3つのフェーズ

これまで述べてきた枠組みをまとめてみましょう。(画像参照)
まず私は経験に基づいた思考、経験主義的思考から入ります。これが経験主義的フェーズ、第1フェーズです。ここで重要なのは、待つことでした。物事が描写できる程度のしっかりとしたデータが集まるまで待つのです。
次に、第2フェーズ。経験主義的フェーズで得られたデータと自分自身の経験や歴史――ここではエイズという過去の深刻な事態――とを対比させるフェーズでした。
それから第3のフェーズ。これは私が芸術的フェーズと呼ぶものです。ここでは、私の本能、直感、歴史家としての経験を自由に開放させ、いくつかの予測を断行します。もちろん、予測するということは経験主義から出るということです。なにしろ、まだ起きていない出来事について話すのですから。
もちろん、それまでの経験に基づいたものであるというのは間違いありません。コロナウイルスで起きている事態を、すでに過去に起きた論理的なシークエンス、ここではエイズの歴史と関連づけ、そこに研究者としての経験を組み合わせると予測が生まれるわけです。ここでイメージしてもらいたいのは筆を握った一人の画家です。キャンパスを前に、これから未来に訪れるものを描こうとしている画家がそこに見えてくるのです。このような予測というフェーズにはどこかしら、芸術的な側面が含まれるものなのです。

芸術的行為としての予測

創造的知性を働かせて得たアイディアというのは、そのアイディアが湧いた後に、データの確認という検証作業があります。たとえば、共産主義はある家族形態の国で現れたとう直感だけを取り出せば、これは確かに歴史的な直感と呼べるものです。そしてそのあと、データをあらゆる国に当てはめて検証していくことが可能なのです。
しかし、予測はそうはいきません。ここには、エイズが発生した過去の社会で確認されてきたように、ウイルスの流行自体がその社会の思想傾向を変化させることはなかったという、私の個人的な経験があります。ここから私は、このポスト・コロナの社会で起きることも同様で、これまでに観察された傾向が深刻化するだろうというわけです。もちろん、まだだれにも確認できません。10年、20年後に明らかになるでしょう。そういう意味では、いまの状況というのは、かつてのソ連の崩壊を予測したときの状況と少し似ているのかもしれません。もっとも今回の場合は、それが確認できるところには私はすでに死んでいるでしょうから責任を取れませんが。
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芸術的な歴史家と、理論上では同様の仕事をしている人文科学の大学に所属しているような研究者たちを比較すると、リスクとの関わり方というのは異なります。前者のほうがより画家に近い存在だと言えるのです。

歴史学者として、私は膨大な知識を蓄積してきました。歴史の多くを知っていますし、家族システムについても膨大な知識を持っています。決して傲慢な態度を取りたいわけではありませんが、自分はプロフェッショナルであると私は思っています。たとえば整備士がプロであるのと同様に。私が知識人かどうかはともかく、知識人に本当に必要なのは、プロフェッショナリズムなのだと思うのです。プロの仕事や手つきには、おのずと芸術性が宿るものです。

なによりも、リスクを負う、思い切る勇気がある、というのがこの私が言うところの芸術的な学者の条件なのです。このリスクを負えるかどうかは、その性格以上に、その人自身が社会にどのように関わっているかということにかかっているのです。