エマニュエル・トッド 混迷の世界を読み解く
経済幻想 Tankobon Hardcover 1999 Amazon
by エマニュエル トッド (著)
家族制度が社会制度に決定的影響を与える現実をトータルに認識し、人類学的構造を異にする英米型資本主義と、日独型資本主義を、「グローバリズム」の名のもとで一律に論じる愚への問題提起の書。
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筑摩書房 エマニュエル・トッドの思考地図 エマニュエル・トッド 著 大野舞 訳
【目次】
日本の皆さんへ
序章 思考の出発点
1 入力 脳をデータバンク化せよ
2 対象 社会とは人間である
3 創造 着想は事実から生まれる
4 視点 ルーティンの外に出る
5 分析 現実をどう切り取るか
6 出力 書くことと話すこと
7 倫理 批判にどう対峙するか
8 未来 予測とは芸術的な行為である
https://www.chikumashobo.co.jp/special/emmanuel_todd/
『エマニュエル・トッドの思考地図』
エマニュエル・トッド/著、大野舞/訳 筑摩書房 2020年発行
7 倫理 批判にどう対峙するか より
同調圧力に抗う
社会科学の分野でキャリアを積む、つまり大学で偉くなっていくというプロセスは、学術的に重要な発見をしたかどうかということに基づいているわけではありません。理系はある程度はそうかもしれませんが、ともかく社会科学ではそうではないのです。社会科学でキャリアを積むためには、その業界と調和して、また自分たちも属している中流階級のメインストリームの思想と合致した考え方を示すことが大切なのです。そうしていればどんどん出世することは可能なわけです。何かを発見するとか興味深いことを言うといったことは関係ないのです。私はですから、このインテリ界というのは真実に対して芯から興味がないのだという結論に至ったのです。
一方で私は決して社会的な人間ではありません。私がちょっと特殊な研究者となってしまった要因として、本質的に社交的ではないということはあるでしょう。ですから周りの環境と調和を取ろうと頑張ったりしないのです。
フランス的にノンと言えるのは庶民です。黄色いベスト運動の人たちはノンと言いましたが、インテリたちはそうではないのです。同調を大切にする日本人もノンと言うことは難しいかもしれませんが、フランスでも社会科学の分野では似たような状況があるのです。歴史学でも経済学でもこのようなことは起きているのです。恐ろしいと思いますね。もう私も歳ですし、社会とは仲良くやっていきたいとは思っているのですが、見方によって、私の研究は認められることもあるわけです。批判的精神に自分が長けているとは考えません。私はずれたところに道を築いてきたという方が正しいと思います。
新刊の裏表紙の紹介文には「挑発的な」という言葉があります。ですが、私は挑発しているのではなく、驚かせているのです。別に人を挑発したいとは思っていません。人はみんなが言っていることの反対のことばかり言う人物だと私を認識しています。しかし、そうではないのです。そこには思考の空白があり、私はアイディアをそこに基込んでいるだけなのです。
確かに、世の中の皆が共有する思想というのはあります。しかしこのありふれた思想というのは、私にとっては思想でも思考でもなんでもないのです。存在しないと同様なのです。私の態度というのは誰かと対決するようなものではないのです。相手はどこにもいないのですから。
最悪の事態を予期できないわけ
私の業績全般が死後にどうなるか、そんな賭けをするなら、私は自分が忘却されるというほうに賭けます。なぜかというと、いまの社会の状態を見るかぎり、人々は自分たちに関する真理を知りたいとは思っていないようにみえるからです。そして私は私で、これらの人々をうまく説得することに失敗してきたとも言えます。
私がとても誇りにしているのは、『経済幻想』のなかで、エリートの拒絶について書いたことです。そこでは経済面で、特にユーロに関してエリートが理性を失っているかのような状態にあるのはなぜかと問いました。この状態をそもそも自然でない、不思議な現象として考えてしまうと、フランスのエリートたちがなぜ真実を見ようとしないのかについて理解を進めるのは困難です。しかし、人類の長い歴史を見てみましょう。すると動物として比較的成功してきた人間にとって、理性を失うことというのは自然である以上に、むしろ必要不可欠なことだということが見えてきます。
人間は、死ぬということを知っている動物です。だからこそ、人間として心地よく生きていくためには、この点について忘れる必要があるのです。目をつぶる必要があるのです。ですから、人間を構成している遺伝子のなかに、つまり生物学的にも生理学的にも、理性を忘れるという機能がサブプログラムとして組み込まれていると思うのです。宗教などよりもさらに奥深い部分の話です。とにかく、死については考えてはいけないのです。
このことを前提にしたうえで、考えをさらに進めてみましょう。そうすると、人間というのは何か非常に不穏な事柄に出会ったときに、そこから目をそらすという能力を備えていることに気がつきます。最悪の事態を予測しないようにできているのです。どんな社会でもそれは共通している点です。
批判を受けるという特権
そうだとすると、社会が私のことを激しく拒絶したということは何を意味するのでしょう。ある社会にとって嫌なことに対する最も簡単な対処方法は無視することです。そして研究に対する反応というのは三段階あります。無視、激しい反発、受容です。私は、社会から激しく反発されたのですが、それはある意味で人々が私の仕事に反発したということでもあります。それはそれで意味があることだと思うのです。
激しい批判というのは、むしろ特権的なことですらあるのです。たとえば私の長女は4年も私を無視していた期間があります。そしてあるとき、私がメッセージを送ると、ひどい罵倒が返ってきました。そのときに私は思ったのです。反応があるということはいいことだと。そしてそれからしばらくして私は彼女と和解することができたのです。
社会を科学するということを突き詰めて考えるのであれば、このようなことを踏まえておく必要がありますし、自分の研究が社会から批判されることを恐れてはなりません。社会をいらだたせるものであるということは、その研究が社会について人々が考えないようにしていることの本質をとられたのだという、なによりの証なのですから、研究者としての倫理などという大された話をするつもりはありませんが、学者として、そして同時に一市民として、私はずっとこのようにしてやってきたのです。