じじぃの「歴史・思想_495_思考地図・対象・社会とは人間である」

Emile Durkheim on Suicide & Society: Crash Course Sociology #5

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IZfGGF-YYzY

Emile Durkheim on Suicide & Society

デュルケム『自殺論』について解説。激動の時代を生き抜くヒント

2020/07/13 なおき@学び直し
デュルケムは膨大なデータを取り出してこれらの事を明らかにし、精神疾患と経済以外の原因を探した。その結果、次のようなことがわかった。
・農村居住者より都市居住者の方が自殺率が高い
・農業従事者より専門職従事者の方が自殺率が高い
・世帯持ちの人より独身・独居の人の方が自殺率が高い
カトリック系の人よりプロテスタント系の人の方が自殺率が高い
このようなデータから、デュルケムは「社会的な繋がりの強弱が自殺率に影響を与える」と推測した。確かに、他者との交流が希薄になりそうな属性の人に自殺が多い。著書『自殺論』ではこのように述べられる。
「社会の統合が弱まると、それに応じて、個人も社会生活から引き離されざるを得ないし、個人に特有の目的がもっぱら共同の目的に対して優越せざるを得なくなり、要するに、個人の個性が集合体の個性以上のものとならざるを得ない。個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、個人はそれに依存しなくなり、したがってますます自己自身のみに依拠し、私的関心にもとづく行為準則以外の準則を認めなくなる」
https://note.com/kotobakaisetsu/n/n332ffe22dc48

筑摩書房 エマニュエル・トッドの思考地図 エマニュエル・トッド 著 大野舞 訳

【目次】
日本の皆さんへ
序章 思考の出発点
1 入力 脳をデータバンク化せよ
2 対象 社会とは人間である
3 創造 着想は事実から生まれる
4 視点 ルーティンの外に出る
5 分析 現実をどう切り取るか
6 出力 書くことと話すこと
7 倫理 批判にどう対峙するか
8 未来 予測とは芸術的な行為である
https://www.chikumashobo.co.jp/special/emmanuel_todd/

エマニュエル・トッドの思考地図』

エマニュエル・トッド/著、大野舞/訳 筑摩書房 2020年発行

2 対象 社会とは人間である より

データ収集を積み重ねれいくと、やがて着想がやってきます。あるいは仮説と呼んでもかまいません。ただ、その前に押さえておくべきことがあります。私たちが生きている社会について考える、あるいは発言するということの意味についてです。
理系といわれる学問と社会科学とのあいだには、根本的な違いがあります。理系の学問は人間社会とは切り離された自然界について研究します。それに対して、社会科学は人間自身が自分たちを理解しようとする学問です。ただし、社会というのは自分たちを保護する防衛機能とも呼べるものを有しているのです。
社会科学の目的が人間の社会を描き出すことにあるというのは、もちろんその通りです。私にとって、人間を描くことは社会を描くことと同様です。人間は社会なしには存在できないのですから。そして、もしその人間が自分自身についての真理を知りたがらないのだとすれば、なぜ社会がそれをわざわざ知ろうとするでしょうか。

社会から覆いを取り去る

こうした問いかけは奇妙なものに思われるかもしれません。どういうことか、もう少していねいに説明しましょう。
社会学において古典とされる作品に、エミール・デュルケームの『自殺論』(1879年)という本があります。その根本を成している考えは、社会学というのは、個人を超越し、個人にとっては無意識的なものであるような集団的な現象に注目すべきだということです。ですから、無意識に関する事柄というのは元来の社会学の定義の中心をなしているのです。
もちろん、ガブリエル・タルド[1843ー1904年。フランスの社会学者]を同様の意味であげることもできます。彼は社会を長い夢、あるいは集団的な悪夢として描きました。
    ・
つまり本来の社会学というのは覆いを取ること、なのです。そして家族構造から思想を説明する――これが私の立場なわけですが――というのも同じようなことなのです。そもそも家族構造に関する仮説は、大衆的な社会政治的マルクス主義を1つの虚偽意識と見なすものでした。私はこれをすることによって、人々の自己イメージが実態とはかけ離れたものだということを見せてしまったのです。その結果、社会からひどい仕打ちを喰らうことは、社会学をする側からしてみれば当然のこととして受け入れられるはずです。
我々は文化的な矛盾を生きています。あるいはそれはむしろ一貫性のなさ、支離滅裂さと言えるかもしれません。今日、誰もが個人の無意識について知っています。精神分析というのは中間管理職など教育など教育を受けた層の人々から受け入れられたのですから。ところがそれでもなお、個人の無意識に表出する社会的無意識というのは受け入れられなくなってしまっているのです。
人々にとっていちばんショッキングなことというのは、自分のことに関して暴露されてしまうことなのです。たとえば私は2015年に『シャルリとは誰か?』を書きました。それによって、自分は寛容であると信じきっていた人々は「じつはあなたはイスラム嫌い」と言われることとなり、自分は勝ち組と思っていたのにじつは負け組であることを暴かれたのです。これらはアイデンティティに関する暴露と社会経済的な暴露のよい例です。いまは和らぎましたが、『シャルリとは誰か?』を出版したばかりのころは、そもそもは私と同じ社会的地位にいる、良心に恥じるところがないと完全に信じ切っていた人々と、真っ向から対立することになってしまったのでした。それは私にとって非常につらい経験でした。

歴史に語らせる

さて、歴史学者の仕事として歴史叙述があるわけですが、分析者やストーリーを語る人々というのは往々にして、人間とはこうであるということをア・プリオリな基盤とし、歴史的出来事を解釈していく立場を採っています。人は暴力的だ、善人だ、悪人だ、多様だ、などなど。特に歴史上野人物、カエサルアレキサンダー大王たちを語るときにその傾向は顕著に現れます。彼らの成果うや人物像について多くのことが語られてきました。しかし私はこういう方法は採りません。というのも、私は歴史こそが人間を定義すると考えるからです。
同様に、「人間とは何か」というような抽象的な問いから出発すれば、どこかで間違えてしまうと私は考えています。内省的な思考をいくら繰り返しても、結局、外にある現実世界に触れることはできないのです。私が自分のことを経験主義者だと言うのはこのような意味なのです。「人間とは何か」と自問して、観念から出発すると、歴史を見誤ってしまったり、あるいはねじ曲げてしまう。そうではなく、まずは、先入観やイデオロギーを極力脇に置いて、歴史を見るべきなのです。人間の歴史を学ぶとそこからさまざまな社会における人間どうしの関係性が見えてきます。この歴史こそが、「人間とは何か」を語りかけてくれるのです。
たとえば最初の中東における農業の発展というのは平和的な共同体によるものだったとわかっています。しかしすぐに暴力性が高まります。
    ・
これらの歴史的出来事が人間とは何かを教えてくれるのです。歴史を見ることで、人間ができることのすべてを見渡すことが可能になるのです。
そうしていくと、結局何が立ち現われてくるか。人間の柔軟性です。こう考えてみると、人間には善の悪もあるというような宗教的な結論に行き着きそうですが、私はこれについれア・プリオリには言えない、という立場なわけです。歴史の描写というのは、歴史的な説明よりもずっと重要で現実的なことだと思うのです。好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかいったア・プリオリな思い入れから離れ、自由な観察者でいるとき、一見複雑きわまりない歴史的現実のなかに、一種の法則性のようなものが見えてくることがあるのです。
大切なのは歴史的出来事を時間に沿った配列として捉えることです。たとえば宗教の危機は識字率の向上よりも前に来るとか、女性の地位低下という事象は技術発展よりもずいぶん前から始まるということです。これらは人間とはどのようなものかという仮説を1つも必要とせずに描くことができます。そして、それを通して結果的に人間とはどのような存在なのかが浮かび上がってくるのです。
信仰心と知性の発展を観察したり、教育を通した発展過程における女性の重要さなどを理解した時点で見えてくるものがあるでしょう。また、人がお互いを殺しあったり拷問したりする生き物だということも歴史からわかります。アステカ帝国の歴史を学ぶと、そこには残酷さや信仰心と科学が複雑に絡み合っていることがわかり、そこからまた、人間の姿が立ち現われるのです。この歴史的視点というのは人間を理解するうえでは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」よりも何倍も強いことだと私は思うのです。また、精神医学よりも、小説よりも強いものなのです。私はどちらかというと精神医学よりも小説のほうが人間の本質を理解するものとして力強いと思っていますが。