フランス 「黄色ベスト運動」開始から1年(19/11/17)
「黄色いベスト」と底辺からの社会運動――フランス庶民の怒りはどこに向かっているのか 明石書店
尾上修悟 (著)
燃料税引上げを契機としてフランスで激化した「黄色いベスト運動」は、組織や政党に頼らず、富と権力を集中させる政府への異議申し立てを行っている。
格差と不平等が広がり「社会分裂」を招いている現代における新たな社会運動と民主主義のあり方を探る。
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『大分断 教育がもたらす新たな階級化社会』
エマニュエル・トッド/著、大野舞/訳 PHP新書 2020年発行
第2章 「能力主義」という矛盾 より
世界的に学力が低下している?
それ以降(アメリカでは1929年の時点で人口の半数以上が中等教育を受けていた)、おそらくテレビの出現によるところが大きいと思いますが、アメリカでは教育レベルの低下が続きました。
それを踏まえても、例えばフランスではバカロレアを取得する若者や高等教育を受ける若者の学力そのものは全体的に低下しています。また、データを見る限り、中等、そして初等教育においても学力が低下しているということが確認されてしまいました。これはフランスだけではなく、もしかすると世界的な話かもしれないと思っています。
主にフランスでの計算と読解のレベルの低下は、視覚的な娯楽が増加していることと関連しています。テレビ、そして動画などが広まることで人々は以前ほど読書をしなくなっているのです。読み方を学ぶというのは、単なる技法を学ぶだけの話ではないのです。
6歳から10歳の子供たちにとって何よりも大切で確かなことは、この時期にしっかりと読書をさせると能力の高い子供になる、ということです。なぜならば読書という行為が脳をフォーマットする機能を持っているからです。ですからこの時期を逃がしてしまうと、もう遅いのです。例えばなまりのない外国語が話せるようになるのは、ある一定の年齢までとわかっています。それと同様に、読み書きを学ぶということも、ある一定の年齢を過ぎると非常に困難であることも知られているのです。読み書きというのは、脳の発達と同時に行なわれるべきことで、おそらくそれが脳を形作るとすら言えると思います。本が多い家庭に育つということが子供にとって有利な環境であるというデータもありあす。
今のフランスで問題だと思われるのは、計算力と読解力の低下が管理職の親を持つ子供たちにおいても起きているという点です。この理由として、学校教育や教育法そのものが放任主義的になってきているという見方もあります。しかし私は、どちらかというと子供たちが読書をしなくなっているということに理由があると思っています。テレビやテレビゲームができる前の時代、子供たちは読書をしているか、そうでなければ退屈していたのです。私は退屈というのは進歩のための大切な要素だと信じています。
能力主義が階級の再生産をもたらす
フランスではすでに「黄色いベスト運動」とともに階級闘争が始まっていると見ることができます。黄色いベスト運動の参加者たちの多くは低収入で、かつ学歴の低い人々でした。この運動の指導者たちは特に高等教育を受けた人たちではなかったことはすでに知られているのですが、私からみたらとても賢い人々に見えました。一方で彼らに対立している人々は、グランゼコール出身の愚か者たちでした。つまり、すでに階級間において知性の転換があったとも言えるのです。
社会がどこへ向かっているのかということを観察、検討することの方が、なぜこうなったのかという問いを立てるよりも興味深いことです。それぞれの社会によってたどる道は異なるということは確かです。
もちろん政府の人間や中流階級以上の人たちの学歴レベルは大衆層の人々よりも上であるというのは間違いないでしょう。しかし注目に値するのは、そんな中でも、「黄色いベスト運動」のように均衡を取り戻す新たな動きがあるということです。もしかすると私たちが今直面しているのは、能力主義の崩壊なのかもしれません。
女性が男性より高学歴になるという新しい現象
国によってかなり大きな可変性を含みますが、私たちは人類史上初めて、先進国の教育において女性が高等教育を受ける比率が男性のそれを超えるという時代を迎えるのです。このような追い越しは、初等教育レベルではかつてカリブ海のアンティル諸島の社会か、ブラジルの黒人社会でしか見られなかったことです。これらの社会では、奴隷制度によって家族制度の崩壊が起き、男女間の識字レベルの不平等が生まれたのです。同様に18世紀から19世紀のスウェーデンでもこのような状況が見られました。しかし、今日、アメリカ、イギリス、フランスやスウェーデンで見られる、高等教育における女性の優位性は全く新しい現象であり、事実として間違いなく観察できることなのですが、どのように解釈したら良いのかはまだわかりません。
いわゆる昔からの成功モデルは、今や理系の学業の中でのみ存続しています。今でも数学と物理は男性の砦のようになっています。これについて社会文化的な解釈を試みることもできますが、必ずしも全てが説明できるとは思いません。フランスでは理系のグランゼコールと呼ばれるエリートの教育機関の役割が社会の再生産に大きな影響を及ぼしています。そんな国で、なぜ男性が理系の分野と強い関係性を持ち続け、その領域をいまだに男性の砦としているのかは、まだうまく説明できません。
ここで、こういう疑問が生まれるかもしれません。「教育面において女性が男性を追い越すという現象と、男女間における実際の権力と象徴権力の不平等な配分は、社会に新たな対立を引き起こす危険性を孕(はら)んでいるのではないか」と。
今、フランスで世論が注目しているのは、男性に対して女性の平均賃金が低いことと、セクシャル・ハラスメントです。これは私が問題にしている教育のデータなどからは不思議とずれた観点なのです。そもそも若い世代にとって問題はもはや女性の平等の獲得以上のものです。そして私が研究を進めている現象からは全く新しいものが見え始めています。
フランス国立人口研究所(INED)の『Population(人口)』と題された雑誌の中に最近面白い記事を見つけました。そこでは、「女性が自分より社会的に地位が高い男性と結婚をする」という従来のモデルが、崩壊していることが示唆されているのです。なぜならば若いカップルにおいては女性の方が男性よりも高学歴であるケースが増えているからです。そういう意味で、全く新しい現実が訪れていると言えます。