じじぃの「ウラルトゥ・古代メソポタミア文明の源流とは?アルメニア人の歴史」

The history of Armenia Summarized

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aT9A_nCuU-Q

Ancient Urartu Civilization Special, What's in the Bag ?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cPRBPjk0MO0

Kingdom of Urartu

Ancient Urartu Civilization

Urartu castle found at the bottom of a lake n Turkey

17 November 2017 Daily Mail Online
The 3,000-year-old remains of an ancient fortification have been discovered at the bottom of Turkey's largest lake.
Divers exploring Lake Van discovered the incredibly well preserved wall of a castle, thought to have been built by the Urartu civilisation.
https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-5093613/3-000-year-old-Urartu-castle-bottom-lake.html

ウソかホントかわからない やりすぎ都市伝説 2021春SP

2021年3月26日 テレビ東京
【司会】今田耕司東野幸治、千原Jr 【都市伝説テラー】関暁夫、その他
関暁夫はトルコ南東部のシャンルウルファを訪れた。ここはシリアと国境まで40kmで世界屈指の危険地域に近い。
トルコ南東部に存在するギョベクリ・テペ遺跡は12000年前に建造がはじまったとされている。
ギョベクリ・テペは、歴史敵地に気づかれないまま発掘作業が行われてきた。しかし近年になり考古学の定説を覆す新たな発見が次々に報告されている。
ギョベクリ・テペの無数に立てられた石柱には星座のシンボルとなる動物たちが掘られていて、これは紀元前1万950年前の星座の配置と一致していて高度な文明だったことを示す。
関暁夫、「ギョベクリ・テペは宗教施設として建てられた」
歴史家・スレイマン・チョバン氏は、「ギョベクリ・テペは常識とされてきた説が覆され、神は人類の歴史の前に存在していた」と語った。
関暁夫は宇宙からの叡智を崇めるため、ギョベクリ・テペを造ったのではないかとの仮説を立てた。
https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202103/24360_202103261859.html

アルメニア人の歴史――古代から現代まで』

ジョージ・ブルヌティアン/著、小牧昌平、小牧昌平、渡辺大作/訳 藤原書店 2016年発行

アラとセミラミス アルメニアの最初の王国、ウラルトゥ(前870~前585年) より

歴史的アルメニアの領域は、メソポタミアと並び、初期農業文化をもった最初の地域の1つだった。それは、人間が旧石器時代・中石器時代の狩猟・食料採集生活に変わって、新石器時代の食料生産を始めた歴史上の一段階であった。ほどなくして、銅器の使用がこの地域で始まったが、それ以降の2千年間、銅器の使用は小アジア、トランスコーカサスメソポタミア、エジプトに限られていた。前3000年までに、メソポタミアでは銅と錫の合金である青銅が産み出され、それはすでにコーカサスの住民にも採用された。定住生活、農業、そして、金属器の使用によって、トランスコーカサス小アジアは文明の揺籃の1つとなっただけでなく、富がもたらされ、そのことからさまざまな侵略者がつけ狙うことにもなった。
前3000年から前1500年までの間に、アラル海カスピ海黒海沿岸地域に集中していたインド・ヨーロッパ系の諸部族が鉄器の製造技術を学び、古代世界のより古い歴史があって、より豊かな地域へと移動し始めた。アジアからやってきた「東方の」インド・ヨーロッパ系民族とヨーロッパからやってきた「西方の」インド・ヨーロッパ系民族がそれぞれトランスコーカサス小アジアに入った。前者は、フルリ人、カッシート人、ミタンニ人などのコーカサスの原住民と対面し、新たな言葉と神々をもたらし、混成文化を生み出した。後者は小アジアヒッタイト王国を築いて、この国家は前1300年までにユーフラテス川まで広がる帝国へと発展した。
同時期には、セム系のアッシリア人が南部に王国を興し、しだいにメソポタミアにそれ以前から存在したセム系文化と混ぜ合わさったり、それに取って代わったりした。地元のコーカサスの人々や小アジアの授民は「東方の」インド・ヨーロッパ系部族と同盟し、新たな連合を組み、ヒッタイトアッシリアと交易したり戦ったりした。

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どうでもいい、じじぃの日記。
インド・ヨーロッパ系民族(アーリア人)がどこから来たのか。
ロシアのウラル山脈辺りに住んでいたのが、中東やインド、ヨーロッパに散らばったというのが有力のようだ。
ジョージアグルジア)というのは、その中継点当たる。
もしかしたら、シュメール人というのもジョージア辺りに住んでいた人たちだったのかもしれない。
スチュワート・ロス著『なんでも「はじめて」大全』にこんなことが書かれていた。

集落と都市

「人々が放浪生活から抜け出すと、洞窟、天幕、一時的な隠れ場所での暮らしよりも、恒久的な住居を求めるようになった。イスラエル統治下のヨルダン川西岸地区にあるエリコおよびトルコのチャタル・ヒュユク(どちらも紀元前9000年頃)がはじめての町かどうかは定かではないが――人口数百人で、現代の村に近いものだった――これらが現在までその姿を保ってきた最古の町であることはまちがいない」
現在、発掘されて分かっている古代の集落で一番古いのはトルコのアナトリア地方らしい。
しかし、ジョージアに住んでいた人々がトルコに移動したとしたら、もっと古い住居跡がジョージアにあってもおかしくない。
ヒッタイト(トルコ)に鉄が伝わったというのも、ジョージアアルメニアの最初の王国、ウラルトゥ)からだという。
ジョージアには旧約聖書に出てくる「ノアの箱舟」伝説がある。