じじぃの「歴史・思想_436_人新世の資本論・ピケティ・21世紀の資本論」

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『人新世の「資本論」』

斎藤幸平/著 集英社新書 2020年発行

第7章――脱成長コミュニズムが世界を救う より

コロナ禍も「人新世」の産物

本書は資本主義から離れ、脱成長コミュニズムに移行する必要性を擁護してきた。そして、ここから先は、脱成長コミュニズムをどう実現させるのか、脱成長コミュニズムがどのように気候危機を解決するのかを説明していきたい。
ただ、その前に、「人新世」の危機の先行事例としてひとつ見ておきたいものがある。新型コロナウイルスパンデミックだ。「100年に一度」のパンデミックによって、多くの人命が失われたし、経済的・社会的な打撃も歴史に残る規模だった。しかし、そうであっても、気候変動がもたらす世界規模の被害は、コロナ禍とは比較にならないほど甚大なものになる可能性がある。コロナ禍は一過性で、ささやかなものだったと、気候変動に苦しむ後世の人々は振り返ることになるかもしれない。
そのように被害規模が違うといっても、コロナ禍を危機の先行事例として見ておく価値はある。気候変動もコロナ禍も、「人新世」の矛盾の顕在化という意味で、共通しているからだ。どちらも、資本主義の産物なのである。
資本主義が気候変動を引き起こしているのは、これまで見てきたとおりだ。経済成長を優先した地球規模での開発と破壊が、その原因なのである。
感染症パンデミックも構図は似ている。先進国において増え続ける重要に応えるために、資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。自然の奥深くまで入っていけば、未知のウイルスとの接触機会が増えるだけではない。自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間、とりわけ現代のモノカルチャーが占める空間は、ウイルスを抑え込むことができない。そして、ウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、瞬間的に世界中に広がっていく。
しかも、パンデミックの危険性は専門家たちによって以前から警告されていた。気候変動の危機の到来を科学者たちが悲痛な声で警鐘を鳴らしているように。
対策についても、気候変動とコロナ禍は似たものになるだろう。「人命か、経済か」というジレンマに直面すると、行きすぎた対策は景気を悪くするという理由で、根本的問題への取り組みは先延ばしにされる。だが、対策を遅らせるほど、より大きな経済損失を生んでしまう。もちろん人命も失われる。

トマ・ピケティが社会主義に「転向」した

また、極端な主張だと思われたかもしれない。だが、驚くなかれ、これは『21世紀の資本』で経済学のスーパー・スターとなったあのトマ・ピケティさえも、(コミュニズムを)採用する立場なのだ。
ピケティといえば、行きすぎた経済格差を批判し、その解決策として、累進性の強い課税を行なうことを提唱するリベラル左派として知られている。このようなピケティの折衷的態度は、スティグリッツアメリカの経済学者、2001年にノーベル経済学賞を受賞)と同様な「空想主義」であるとジジュク(スロベニアの哲学者、『ポストモダン共産主義』)に批判されてきた。(第3章「資本主義システムでの脱成長を撃つ」参照)。たしかに、『21世紀の資本』に限っていえば、ジジュクは正しい。

けれども、2019年に刊行された『資本とイデオロギー』でのピケティの論調はまったく異なる。ピケティは「資本主義の超克」を繰り返し求めるようになり、そのうえで対案として、単なる「飼い馴らされた資本主義」ではなく、「参加型社会主義」(socialisme participatif)をはっきりと要求するようになっているのである。

ピケティは言う。「現存の資本主義システムを超克できるし、21世紀の新しい参加型社会主義の輪郭を描くこともできると私は確信している。つまり、新しい社会的所有、教育、知と権力の共有に依拠した新しい普遍主義的で、平等主義的な未来像を描くことはできるのだ」。これほどはっきりとした社会主義への「転向」は、ほかには存在しない。
そして、社会民主主義政党が労働者階級を見捨て、インテリの富裕層重視になっていったことを「バラモン左翼」と痛烈に皮肉っている。リベラル左派の姿勢を、右派ポピュリズムの台頭を許しているとして、厳しく批判するようになっているのだ。
左派は自分たちが誰の苦しみに向き合わねばいけないかをもう一度、思い出さなくてはならない。そのために、ピケティはあえて「社会主義」を掲げるのである。

脱成長コミュニズムが物質代謝の亀裂を修復する

最後に、脱成長コミュニズムという晩年のマルクスの到達点を、もう一度まとめておこう。
晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった。労働者の創造性を奪う分業も減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。意思決定に時間がかかってもかまわない。また、社会にとって有用で、環境負荷の低いエッセンシャル・ワークの社会的評価を高めていくべきである。
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とりわけ、グローバル資本主義のせいで疲弊した都市において、人々の苦しみから模索が始まり、新しい経済を求めるうねりが起きているのだ。そして今、そうした運動が世界各地の都市、さらには国の政治を動かすまでになっている。
これらの抵抗運動が、必ずしも脱成長を掲げているわけではないし、コミュニズムを意識的に目指しているわけでもない。しかし、脱成長コミュニズムの萌芽を秘めている運動が広がっているのだ。なぜなら、「人新世」という環境危機の時代に、資本主義に対峙しながら、今とはまったく別の社会を生み出そうとしている運動は、必然的にそこに向かっていくからだ。