じじぃの「歴史・思想_435_人新世の資本論・空気と水・使用価値」

Water in the anthropocene

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LvWPO_ZfIMM

Anthropocene Epoch

Anthropocene Epoch

Britannica
A simulated night-time image of the world during the Anthropocene Epoch, an informal geologic time interval characterized by the substantial influence humans over many of Earth's natural processes, showing the extent of artificial lighting across Earth's surface.
https://www.britannica.com/science/Anthropocene-Epoch

『人新世の「資本論」』

斎藤幸平/著 集英社新書 2020年発行

第6章――欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム より

欠乏を生んでいるのは資本主義

豊かさをもたらすのは資本主義なのか、コミュニズムなのか。多くの人は、資本主義だと即答するだろう。資本主義は人類史上、前例を見ないような技術発展をもたらし、物質的に豊かな社会をもたらした。そう多くの人が思い込んでいるし、たしかに、そういう一面もあるだろう。
だが、現実はそれほど単純ではない。むしろ、こう問わないといけない。99%の私たちにとって、欠乏をもたらしているのは、資本主義なのではないか、と。資本主義が発展すればするほど、私たちは貧しくなるのではないか、と。
資本主義が生み出している欠乏の典型例が土地だろう。ニューヨークやロンドンを見ればわかるように、小さなアパートメントの1室の不動産価格が数億円にのぼるケースも多く、家賃にしても毎月数十万円の物件はざまで、広めの物件ともなれば、数百万円はくだらない。そうした不動産が居住目的ではなく投機の対象として売買されている。しかも投機対象の物件は増えるばかりで、誰も住んでいないアパートメントも多い。
そのかたわらで、家賃が支払えない人々は長年住んでいた部屋から追い出され、ホームレスが増えていく。投機目的のため実際には誰も住んでいない部屋が多数存在しているにもかかわらず、ホームレスが大勢いるという事態は、社会的公正の観点から見ればスキャンダルでさえある。
比較的裕福な中流層ですら、マンハッタンに住むことは極めて難しい。家賃を支払うためだけに、過労寸前まで働かねばならない。また、ニューヨークやロンドンの中心地で個人事業主がオフィスを構えたり、店を開いたりするのはもはや至難の業だ。そういった機会は、大資本にしか開かれていない。
果たして、これを豊かさと呼ぶのだろうか。多くの人々にとって、これは欠乏だ。そう、資本主義は、絶えず欠乏を生み出すシステムなのである。
一方、一般に信じられているのとは反対に、コミュニズムは、ある種の潤沢さを整えてゆく。
例えば、投資目的の土地売買が禁止なり、土地の価格が半分、いや3分の1になったとしたらどうだろうか。土地の価格は、しょせん人工的につけられたものだ。価格が減じたところで、その土地の「使用価値」(有用性)はまったく変化しない。だが、人々はその土地に住むために、これまでのような過酷な長時間労働をしなくてすむ。その分だけ人々にとっての「潤沢さ」が回復するのである。
この資本主義の生み出す希少性とコミュニズムがもたらす潤沢さの関係を説明するのに役立つのが、やはりマルクスだ。『資本論』第1巻の「本源的蓄積」論が、興味深い洞察を与えてくれる。早速見ていこう。

「価値」と「使用価値」の対立

ただし、ローダデール(19世紀初頭の経済学者)自身は、このパラドックス(富と財の矛盾しあう性質)をそれ以上展開していない。それに対して、マルクスが商品の根本的矛盾として展開しようとしたのは、まさにこの財産(riches)と富(wealth)の矛盾そのものだといっていい。

マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。

それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。
マルクスによれば、資本主義においては、商品の「価値」の論理が支配的となっていく。「価値」を増やしていくことが、資本主義的生産にとっての最優先事項になるのである。

「コモンズの悲劇」ではなく「商品の悲劇」

もう一度、水を例にとって考えてみよう。少なくとも日本では、水は潤沢である。また、生きていくためにあらゆる人が必要とする。「使用価値」が水にはある。だから本来誰のものでもなく、無償であるべきだ。ところが、水はすっかりペットボトルに入った商品として流通するようになった。商品で支払いをしないと利用できない希少財に転化しているのだ。
水道事業でも同じことが起きている。水道が民営化されると、企業が利益を上げることが目的となるため、システム維持に最低限必要な分を超えて水道料金が値上げされる。
水に価格をつけることは、水という限りある資源を大切に扱うための方法だという考え方もある。無料だったら、みんなが無駄遣いをしてしまう。それが、生態学者ギャレット・ハーディンが提唱したことで有名な「コモンズの悲劇」の発想である。
だが、水に価格をつければ、水そのものを「資本」として取り扱い、投資の対象としての価値を増やそうとする思考に横滑りしていく。そうなれば、次々と問題が生じてくる。
例えば、水道料金の支払いに窮する貧困地帯への給水が停止される。運営する企業は、水の供給量を意図的に減らすことで、価格をつり上げ、より大きな利益を上げようとする。水質の劣化を気にせず、人件費や管理・維持費を削減するかもしれない。結果的に、水というコモンズが解体されることで、普遍的アクセスや持続可能性、安全性は毀損されることになる。
ここでも、水の商品化によって「価値」は増大する。ところが、人々の生活の質は低下し、水の「使用価値」も毀損される。これは、もともとはコモンズとして無償で、潤沢だった水が、商品化されることで希少な有償財に転化した結果なのだ。だから、「コモンズの悲劇」ではなく、「商品の悲劇」という方が正しい。