じじぃの「歴史・思想_426_脳の隠れた働きと情動理論・心と身体の境界」

アントニオ・ダマシオ:意識の理解はどこまで進んだか

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LMrzdk_YnYY

Feeling Our Emotions

April 1, 2005 Scientific American
MIND: The differentiation between emotions and feelings brings to mind 17th-century philosopher Ren Descartes’ idea of dualism-that the body and mind represent autonomous systems. But you reject that idea, as you explain in your book Descartes' Error. How should we see the relationship between mind and body?
https://www.scientificamerican.com/article/feeling-our-emotions/

情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論 紀伊国屋書店

【内容説明】
従来の理論を刷新し、人間の本性の見方に新たなパラダイムをもたらす!
幸福、悲しみ、怖れ、驚き、怒り、嫌悪――「脳は反応するのではなく、予測する」
心理学のみならず多くの学問分野を揺さぶる革命的理論を解説するとともに、情動の仕組みを知ることで得られる心身の健康の向上から法制度見直しまで、実践的なアイデアを提案。英語圏で14万部、13ヵ国で刊行の話題の書。

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『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』

リサ・フェルドマン・バレット/著、高橋洋/訳 紀伊国屋書店 2019年発行

第11章──情動と法 より

思春期にさしかかったティーンエージャーなら誰もが発見するように、自由はとてもすばらしい。友人と真夜中まで外出する、宿題をしない、夕食にケーキを食べる──これらをどうするか、自分で決めることができる。だがやがて誰もが学ぶように、選択には結果がともなう。法は、「私たちは他者を正当にも、本当にも扱える」という単純な前提に基づく。選択は責任に付与する。誰かをあしざまに扱い、その結果その人に危害が及べば、とりわけそれが意図されていた場合、あなたは罰せられるだろう。かくして社会は、あなたを個人として尊重していることを示す。ある法学者の言葉によれば、人間としてのあなたの価値は、あなたが自分の行動を選択し、それに対する責任を負うことにある。
法の規定するところでは、自由に行動する能力が妨げられると、あなたが引き起こした危害に対する責任は軽減される。ゴードン・パターソンの事例を紹介しよう。彼は、妻のロベルタが「半裸の状態で」愛人のジョン・ノースラップと一緒にいるのを目にして、ノースラップの頭に銃弾を2発撃ち込んで殺した。パターソンはノースラップを射殺したこと自体は認めながらも、犯罪に走ったその瞬間、「極端な情動の混乱」にとらわれていたので罪は軽いと主張した。アメリカの法に従えば、突然の怒りの爆発が、自己の行動を十分にコントロールできない状態にパターソンを陥れたと見なすことは可能だ。それゆえ彼は、予謀が前提条件となる重い刑罰が科される第一級殺人ではなく、第二級殺人による有罪が宣告された。つまり理性的な殺人は、他の条件がすべて等しければ、情動的な殺人より罪が重いと考えられている。
アメリカの法制度は、情動を人間の動物的な本性の一部と見なし、理性的な思考で抑えられなければ、愚かな行動や暴力行為が引き起こされると仮定している。数世紀前には、挑発された人がときに殺人を犯すのは、十分に「頭が冷めて」おらず、怒りが抑制されずに噴出するかただと法律家は考えていた。怒りは、沸騰し、噴出することで破壊の爪跡を残していく。そして自己の行動を法から逸脱させる。したがって怒りは、自己の行動に対する責任を部分的に軽減する。この論法は、「激情(heat-of-pasion)」弁護と呼ばれる。
激情弁護は、古典的情動理論が提起」するいくつかの前提に依拠している。1つは、特定の指標を持つ、たった1つの普遍的な怒りが存在し、それによって激情弁護を殺人罪に適用することが正当化されるという前提がある。その指標には、紅潮した顔、真一文字で結ばれた口、広がった鼻孔、心拍や血圧の上昇、発汗などが含まれる。すでに見てきたように、その手のいわゆる指標は、データによる裏づけのない欧米の文化的ステレオタイプにすぎない。一般に、怒れば心拍数は上がるが、人によって大きなばらつきがあり、しかも心拍数の上昇は、降伏、悲しみ、怖れのステレオタイプの一部でもある。だが、ほとんどの殺人は幸福や悲しみの情動を感じてなされるわけではないし、その場合でも、法はそれらの情動の突発を減刑要素と見なしたりはしない。
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足を骨折させた人を訴えられるのに、なぜ心を折った人を訴えられないのか? 法は情動的なダメージを身体的なダメージより軽いものとし、懲罰には値しないと見なす。何と皮肉なことか。

身体は人間を人間たらしめている組織、すなわち脳を収めた容器にすぎないにもかかわらず、法は解剖学的身体の統合性は保護しても、心の統合性は保護しないのだから、情動的なイメージは、身体的なダメージがともなわない限り、現実のものとは見なされない。要するに、心と身体は別物なのだ(デカルトに乾杯!)。
本書から学べることの1つに、「心と身体の境界は穴だらけだ」という理解がある。
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情動の科学は、法がこれまで長いあいだ抱いてきた、人間の本性に関するいくつかの想定を照らし出すための便利な懐中電灯になる。すでに述べてように、その種の想定は、人間の脳の構造に基づく裏づけがない。人間は理性という陣営と情動という陣営を抱え、前者が後者を統制しているのではない。判事は、そのとき感じている気分を脇に置いて、純粋な理性のみによって判決を下せるわけではない。陪審員は、被告に情動を感知することなどできない。もっとも客観的に見える証拠ですら、感情的な現実主義に染まっている。犯罪行為を脳の特定のかたまりに位置づけることはできない。情動的な危害は単なる不快感なのではなく、寿命を縮める場合もある。要するに、他のいかなる場所とも同様、法廷で生じるあらゆる知覚や経験は、公正な手続きの結果として得られるのではなく、文化を吹き込まれ、高度にその人に特化され、外界からの感覚入力による訂正を受ける。
私たちは現在、心と脳の新たな科学が法改正に関与する新時代に突入しつつある。判事、陪審員、弁護士、証人、警官やその他の司法関係者に助言することで、やがてより公正な法制度を築き上げられるはずだ。ただちに陪審員制度を廃止することは不可能であろうが、情動は構築されるものだと陪審員に助言するという単純な方法でさえ、現状の改善につながるだろう。