じじぃの「歴史・思想_358_ユダヤ人の歴史・正統派ユダヤ教徒」

The Jews are coming - The Ten Commandments

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fCV8j3VSsXs

イスラエル「超正統派」ユダヤ人の間で感染拡大…戒律重視で礼拝規制も無視

2020/07/13 読売新聞オンライン
イスラエル政府は、感染拡大につながるリスクが大きいとして、シナゴーグユダヤ教の礼拝所)での礼拝を規制しているが、超正統派の多くは「神が許さない」と言って無視してきた。新型コロナウイルスについて「神を超越しようとした人間に対する罰だ」「人間による愚かな行動の報いだ」と主張する聖職者もいるという。
そうした考え方に加え、生活環境も感染拡大の一因になっている可能性が指摘される。避妊が許されないため世帯あたりの人数が多い上、多くが仕事を持たず貧しいため、狭い家屋で密集して暮らしている場合が多いとされる。
https://www.yomiuri.co.jp/world/20200713-OYT1T50125/

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

戒律問題 より

ユダヤ教が厳格な道徳的教義に満ちているため、紛争が生じる分野は非常に広かった。例えば、法的な地位が与えられた安息日がある。この日には、乗り物の運転、乗り物に乗った旅行、著述、楽器の演奏、電話をかけること、電灯を点(つ)けること、金銭を触ることなど39の主要な禁止事項と、その他多くの補足的な禁止事項が存在する。その上最も一般的なユダヤ教法典は、「安息日を公然と穢(けが)すものは誰であれ、あらゆる意味で非ユダヤ人に等しい。彼が触れたワインは飲むべかたず、焼いたパンは非ユダヤ人のパンに等しく、作った料理は非ユダヤ人の料理に等しい」と定めている。
このため安息日の戒律は、軍隊、官僚組織、公営産業と協働農業の各分野に、深刻な問題を提起した。安息日キブツで牛の乳搾りを許すべきかどうか、テレビ放送を認めるべきかどうかが激しく争われ、数多くの法律が制定され、しかも矛盾する地方条例や細則が混在した。かくして安息日はバスがハイファでは運行されテルアビブでは走らず、喫茶店がテルアビブでは開かれハイファでは開かれず、エルサレムでは両方とも禁止された。国営エル・アル航空による安息日の航空機運航をめぐって、一度内閣崩壊の危機が訪れたこともある。国営海運会社の客船で適正食品(カシエル)でない普通の料理を出すかどうかについての論争は、政府内でエル・アル問題よりもさらに長引いた。食品の戒律をめぐる問題は政治的な争いを引き起こしやすかったのである。ホテルやレストランの営業には、ラビの団体が発行する「適正証明書」を必要とした。1962年に制定された法により、ナザレ近辺のキリスト教徒アラブ人地域を除いて、学術目的以外での豚の飼育が一切禁止された。さらに1985年には、豚肉食品の販売、流通禁止法制運動が始まる。また政府とラビはそれぞれ、飼育業者がひづめを持ち反芻(はんすう)する哺乳類であると申告した東インドネシア産シカイノシシが、本当に戒律上問題ないかどうか検査した。神聖とされる土地での死体解剖と埋葬をめぐる論争も内閣で起きた。
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正統派ユダヤ教徒はまた、多くの施設で男女を隔離する昔からのしきたりがさまざまな形で破されるのを見て激怒した。彼らの居住区の近くでは、ダンス・ホールや男女共同の水泳プールに押しかけて怒りをぶつける場面が見られた。女性の徴兵制度については、「トーラー偉人評議会」が、たとえ命を犠牲にしても無視すべき法律として非難した。これは宗教重視派が勝利をおさめた多くの闘いの一例である。
彼らはまた、最重要課題である婚姻についても勝利をおさめた。イスラエルは世俗的国家であるにもかかわらず、民事法上の婚姻制度制定をあきらめざるを得なかった。ユダヤ教徒ではないもの同士の結婚であっても、1953年に制定された(結婚と離婚に関する)ラビ法廷管轄法第1条と第2条のもとで正統派ユダヤ教のきまりが適用された。国会では、世俗派議員もこの法案もこの法案に賛成表を投じた。法案不成立は、互いに結婚できない2つの共同体へイスラエルがしだいに分裂してしまうことを意味したからである。
しかしこの法律は、やっかいな問題を引き起こし訴訟を長引かせた。巻きこまれたのは非ユダヤ人や世俗的ユダヤ人だけではない。改革派ユダヤ教のラビたちや、彼らの手によって改宗した者たちも争いの当事者となった。正統派ユダヤ教のラビだけが改宗者認定の顕現をもち、改革派ユダヤ教への改宗者を認めようとしなかったからである。正統派ユダヤ教の立場をとる結婚と離婚についての専門家は、彼らの見地からすれば当然のこととしてすべてのユダヤ人移民集団を厳格に審査した。こうして1952年には6000人に及ぶブネイ・イスラエル(インドのボンベイから来たユダヤ人)の離婚制度が精査されたのち無効とされ(最終的には有効となった)、1984年にはエチオピアからのファラシャ系ユダヤ人の結婚に疑問が呈された。
再婚と離婚については、数多くの激しい論戦が繰り広げられた。旧約聖書申命記25章5節は、子供のいない寡婦(かふ)と死亡した夫の兄弟との間にレヴィラート婚を強制する。この義務はヘブライ語でハリツァーと呼ばれる「義弟による拒否」によって消滅するが、義弟が未成年の場合寡婦は成人するまで待たねばならない。もし義弟の耳が聞こえず口がきけず、「わたしは彼女との結婚を望まない」と言えなければ、他の男との再婚はゆるされない。この事例は実際、1967年にアシュドドで起きている。しかも男性はすでに妻帯していたのであった。そこでラビ団は取りあえず、重婚の手続きを取り、その翌日離婚させて問題を解決した。
配偶者の一方が離婚を拒否したときにも、難しい問題が起こった。妻が拒否する場合、離婚成立は難しくなる。だが夫が拒否した場合には、離婚はまったく成立しない。例えば1969年の事例では、夫は6件の猥褻接触行為と3件の強姦によって禁固14年の刑を宣告された。妻が離婚請求の訴えを提起すると、夫はこれを拒否した。ラビ律法のもとでは、2人の婚姻は継続し、イスラエル民法上、妻には一切救済手段がなかった。