じじぃの「歴史・思想_347_ユダヤ人の歴史・エマ・ラザラスとニューヨーク」

The Emma Lazarus Project

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ChhnZLO32mo

Jews who went to New York.

Emma Lazarus, The Courageous Jewish Poet Behind The Statue Of Liberty’s Famous Inscription

Emma Lazarus was a renowned Jewish-American writer whose most famous poem, 'The New Colossus,' is immortalized on the Statue of Liberty.
The pogroms in Russia forced Jews to flee Eastern Europe starting in the 1880s. Many of them emigrated to the U.S.
https://allthatsinteresting.com/emma-lazarus

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

エマ・ラザラスとニューヨークのユダヤ人大衆 より

ニューヨークの裕福なユダヤ人たちは、ヨーロッパからの避難者がやがて作り出すであろう機会をまだ把握していなかった。1648年の大虐殺といったユダヤ史上に多く見られる出来事のように、それは結局悲劇の中から勝利をもたらす神の計画の一部だと解釈することができたかもしれないが、当時はそう考えられてはいなかった。彼らは公平を期すため、自分たちの懸念を押さえ、東欧のユダヤ人を歓迎し吸収するために全力を尽くした。
しかしより明敏な人々もいた。その中に、ワード島に設立されたユダヤ系の移民救済組織のために奉仕した若い詩人エマ・ラザラス(1849~87年)がいる。彼女の才能は、エマーソンによって見いだされ伸ばされた。彼女はロマン主義的な熱意を古今のユダヤ文化に対して注いだ。中世の偉大な詩人イェフダ・ハレヴィの詩を翻訳し、ハイネの詩も翻訳した。彼女は、ニューポート墓地をうたったロングフェローの哀詩を賞賛したが、その否定的な結び「そして死滅した民族は再び立ち上がらなかった」を嘆いた。それは事実ではない! ユダヤ人は再び立ち上がるだろう。彼女は由緒正しい裕福なスファラド系の家庭の出身であった。しかし、一団となってアメリカ合衆国に移民することによって自分たちの道を切り開いた貧しいアシュケナズ系(ドイツ系ユダヤ人)の中に、米国かイスラエル、またはその両方にエルサレムを再建するであろう将来の軍隊の構成要素を見いだしていた。彼女は雑誌『新世紀』(1882年)で、アンティ・セミティズム(反ユダヤ主義)の中傷から彼らを擁護した。おそらく当時の米国に住む誰よりも、ヨーロッパで迫害された貧しい人にとって米国の理想や現実がどんなに重要かということを理解していただろう。ニューヨーク港の入口に自由の女神像が建立されたとき、彼女は「新しい巨人」というソネットを書いて、「自由」に不朽の言葉を捧げた。
  あなたの疲れて貧しいうごめく群衆をわたしに渡しなさい
  彼らは自由の息吹を切望している
  あなたの豊かな岸辺の哀れな打ち棄てられた人々
  彼ら家もなく嵐にもてあそばれた人びとをわたしに送りなさい
  わたしは黄金の扉の横にランプを掲げていよう
エマ・ラザラスは、とりわけ世界のユダヤ人社会にとっての米国の重要性を理解していた。うごめく群衆はやがてまっすぐに立ち、強靭になって、新世界から旧世界に向かって力強い手を差し伸べるのではないか。彼女の詩「ユダヤ人の旗」はシオニスト的であった。彼女の「ヘブライ人たちへの書簡」(1882~3年)は、米国と聖地の相互活動を通してユダヤ文明が再来することを予見している。ニューヨークのスラム街にたむろするアシュケナズ系ユダヤ人社会の哀れな打ち棄てられた人々の中に、彼女は日々の暮らしだけでなく希望を見ていたのである。
そこには確かに日々の暮らしがあった。圧倒されるほどおびただしい数の人々の暮らしが、新しく到着した人々がニューヨークに押し寄せたとき、上流社会のドイツ風シナゴーグはマンハッタンの住宅地区と移動した。避難民たちはロウアー・イーストサイド、つまりバウリー通り、3番街、キャスリン通り、14番街、そしてイースト川に囲まれた1.5平方マイル区画へ流入した。ここでは1910年までに、54万人のユダヤ人が亜鉛アパートと呼ばれた場所に詰め込まれていたが、その形状は通気孔を備えることを規定した1879年の市の条例によって決められていた。それらは高さ5階から8階建て、幅25フィート、奥行き100フィートで各階14室を備えていたが、そのうちの1つにしか明かりがなかった。
ニューヨークのユダヤ人社会の中心地はものすごい密集地の第10区であったが、そこの46区画には7万4401人が1196軒の借家に住んでいた(1893年)。1エーカーあたり709.1人という人口密度である。ここはいわゆる「縫製業」のおこった場所でもある。これにはほとんどの移民が雇われ、既製服の裁断と仕立てを行ない、1つの小さな部屋に12人も詰め込まれて週70時間働いていた。すでに1888年までに、ニューヨークにあった241の衣服工場のうち234がユダヤ系であった。それは1913年までにニューヨークの最も重要な産業になっている。1万6552の工場のほとんどすべてがユダヤ系で、31万2245人の従業員が雇われていた。
これは搾取される労働だったのだろうか。その通りであった。しかし上昇移動の大きな原動力でもあった。避難民は恐怖に震えながら到着したため従順だった。
    ・
1880年には、米国のユダヤ人人口は国民5000万人のうち25万人をちょうど超えたところであった。40年後、1億1500万の国民人口中ユダヤ人人口は450万人に急増し、その増加率は18倍だった。
これほど大量のユダヤ人が米国の社会に簡単に溶け込むというのは不可能だった。それはすべてのユダヤ人社会の縮図であり要約であって、その中には最も厳格な形のユダヤ教の熱狂的な代表者も含まれていた。1880年には、200ちょっとあった米国のシナゴークの約90パーセントが改革派のものだった。しかし、新しい来訪者が発言力を高めるにつれて、彼らは優勢を維持することができなくなる。1883年に、ある悪名高い事件が起こる。それは、改革派が管理する、米国内の主要なラビ養成学校であったヘブライ・ユニオン大学の第1回卒業式、その夕食会での出来事だった。エビ、その他の適正食品でない食べ物がそこで振る舞われたのである。大騒ぎとなり、多くの著名なラビたちが憤慨し嫌悪感をあらわにして退出した。
それ以降、急速に米国のユダヤ人社会の再編成が起こる。1886年には、保守派が自分たちのユダヤ教神学校を設立した。正統派も制度機構を作り上げた。1890年までに、米国にある533の会衆組織のうち316が正統派となった。結局保守派が1番、正統派が2番目、そして改革派が3番目という3層構造となった。1910年までに米国ではさまざまな宗派のユダヤ教が普及していた。