じじぃの「歴史・思想_344_ユダヤ人の歴史・さまよえるユダヤ人・帝政ロシア」

Yiddish song about Odessa pogrom 1871.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=L4n6f6LVGLg

Pogrom

Pogrom

From Wikipedia
A pogrom is a violent riot aimed at the massacre or expulsion of an ethnic or religious group, particularly one aimed at Jews.
The Slavic-languages term originally entered the English language to describe 19th- and 20th-century attacks on Jews in the Russian Empire (mostly within the Pale of Settlement). Similar attacks against Jews at other times and places also became retrospectively known as pogroms. The word is now also sometimes used to describe publicly sanctioned purgative attacks against non-Jewish ethnic or religious groups. The characteristics of a pogrom vary widely, depending on the specific incidents, at times leading to, or culminating in, massacres.
Significant pogroms in the Russian Empire included the Odessa pogroms, Warsaw pogrom (1881), Kishinev pogrom (1903), Kiev Pogrom (1905), and Bialystok pogrom (1906). After the collapse of the Russian Empire in 1917, several pogroms occurred amid the power struggles in Eastern Europe, including the Lwow pogrom (1918) and Kiev Pogroms (1919).

                      • -

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

帝政ロシアユダヤ人政策 より

帝政ロシアにおけるユダヤ人への虐待は最も組織的でむごいものだった。たしかに、急進派にとってツアー政権は、あらゆる場所で独裁政治の最も凶悪で頑固な側面を具現していた。これをユダヤ人は特別な嫌悪感をもって見ていた。そしてこれがユダヤ人を左派へ駆り立てた第4の、そしておそらく最も重要な要因であった。ロシアのユダヤ人に対する険悪な処置は現代世界史における重要な事実の1つであり、詳細に検討する必要がある。まず第1に了解しなかればならないことは、ツアー政権はごく初期から無慈悲な敵意をもってユダヤ人を見ていたという点である。他の独裁政府は、オーストリアプロイセン、そしてローマでさえも、あいまいな態度を保持していた。ユダヤ人であるという理由で迫害するかと思うと、ユダヤ人を保護し、利用し、搾取することもあったのである。それに対し、ロシア人は常にユダヤ人を、受け入れることのできない異分子として扱った。1772年から95年にかけてのポーランド分割までは、多かれ少なかれ彼らはユダヤ人を自分たちの領土の外に留めておくのに成功していた。ポーランドの領地を望んで手に入れた結果、厖大な数のユダヤ人を抱えることになり、政府は、「ユダヤ人問題」を「解決する」ために、同化か追放という方法で対処し始めたのである。
ロシア人がしたことは、近代最初の社会工学の実践である。彼らは人間(この場合はユダヤ人)を、まるでそこらじゅうで掘り出される土くれかコンクリートのように扱った。第1に、ユダヤ人を「居住境界」と呼ばれる地域に閉じ込めた。それは1812年に最終的に形成され、バルト海から黒海まで伸びる、西の25の州からなる地域であった。ユダヤ人は、特別な法的許可なしには、居住境界外に住むことはもちろん、その外に出て旅行することもできなかった。第2に、1804年に始まった一連の法規によって、居住境界内で湯田宇ア人が住むことのできる場所と、そこでユダヤ人がしてもよいことが定められた。ユダヤ人にとって最もきつかったのは、村に住むこと、村で働くこと、小作人にアルコールを売ることを禁じられたことだった。これによって、村で賃貸業を行なうか、宿屋を営んでいたユダヤ人人口の3分の1が生計を失った(あとの3分の1は商人であり、残りの大部分は職人であった)。
    ・
帝政ロシアの最後の50年間に、ユダヤ人に加えられた公的な規制は、人間の残酷さ、愚かさ、そして無益さを示すいわば巨大な記念碑を作り上げた。最終版の注釈付き集成『ユダヤ人に関するギンペルソンの法令』(1914~15年)は、ほぼ1000頁に及ぶ。英国の歴史家ルシアン・ウルフによって編集された要約から、次のような事実がわかる。ユダヤ人はロシアにおいて人口の24分の1を占めていた。彼らの約95パーセントが居住境界に閉じ込められていて、23分の1が帝国の領域に住んでいた。大多数は居住境界の都市かシュテートル(ユダヤ人区)に押し込められ、それは領土の2000分の1という広さしかなかった。ユダヤ人のパスポートには彼がユダヤ人であること、および、どこに住むことができるかが明記されていた。
居住境界内においてさえ、多くの境界でユダヤ人の居住は禁止されていたふが、「合法的」な地域も絶えず浸食されていた。ユダヤ人はセバストポリキエフから閉め出されていた。ドン河海域は突然居住境界から除外された。
    ・
ポグロム帝政ロシア末期に行われたユダヤ人迫害行為)の結果、「5月法」として知られるさまざまな反ユダヤ的な法がつくられる。実際ポグロムは法を正当化するために利用され、次のような主張がなされた。群衆のユダヤ人攻撃は、それ自体は嘆かわしいことであるが、この反社会的な少数者に対する民衆の憤慨がいかほどであるかを示している。したがって、その少数者グループの活動は制限されなければならない、と。もちろん政府は最初群衆の行動を鼓舞し許していたが、政権の本来の目的は、容易な標的を攻撃することによって完全に低落した政権の人気をなんとかもちこたえることだった。後にナチも、この暴力に先導された立法というまったく同じ手法を使っている。
1881年から1911年の30年間に行なわれた反ユダヤ的行動は、長い一覧表の記録になる。1882年に5月法、1886年から89年、ユダヤ人の専門職への就職制限と居住境界地域の縮小、1891年、1万人以上のユダヤ人がモスクワから追放される。1893年から95年、非居住境界地域から大量のユダヤ人が追放される。1894年から96年、アルコール専売の導入により、ユダヤ人は経済的大打撃を被(こうむ)る。1903年以降、一連の激しいポグロムユダヤ人は強奪されるだけでなく虐殺された。1905年、キシニュフで50人のユダヤ人が殺され、500人のユダヤ人が負傷。オデッサでは1905年に4日間ポグロムが続き、400人以上のユダヤ人が殺された。ビアリストクでは警察や軍が1906年ポグロムに参加した。1908年から1911年は、より大規模な追放が行なわれた。