じじぃの「歴史・思想_302_ベラルーシ・バーリンとチェス兄弟」

映画 「キャデラック・レコード」 予告編

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=l48KGSxnOqo

ベラルーシを知るための50章』

服部倫卓、越野剛/編著 明石書店 2017年発行

ベラルーシ出身のユダヤ人がアメリカ音楽を作った――バーリンとチェス兄弟の物語 より

ビング・クロスビーが歌い、世界中で最も売れたシングルレコードと言われる「ホワイト・クリスマス」。それを作詞作曲したのが、ポピュラー音楽史に燦然と輝く大作曲家、アーヴィング・バーリンである。他方、チェス・レコードと言えば、米シカゴの黒人音楽インディーレーベルで、ロックンロールやリズムアンドブルースの原型を作ったことで知られる。そしてそのチェス・レコードを興したのが、兄レナードと弟フィルのチェス兄弟である。
アーヴィング・バーリンとチェス兄弟には、共通点がある。どちらも、現ベラルーシ領出身のユダヤ人で、新大陸に渡り音楽業界で成功したという点だ。
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改めて整理すれば、アーヴィング・バーリン(生誕名はイスロエル・イジドル・ベイリン)は、帝政ロシア末期の1888年ベラルーシ東部のユダヤ人街で生まれた。ただし、具体的な生誕地については、モギリョフ、トロチンと2つの説があり、はっきりしたことは分からない(ロシア・シベリアのチュメニ生まれだとする情報も一部に見られる)。このように出身地が曖昧なのも、バーリンが5歳の時に家族とともにアメリカに移住してしまったからであり、幼年期の記憶はほとんど残っていないようだ。バーリン一家が故郷を捨てざるをえなかったのは、当時ロシアで猛威を振るっていた「ポグロム」、すなわちスラブ系住民によるユダヤ人襲撃が原因であった。1893年のある夜、コサックたちがバーリン一家の住んでいた界隈を襲い、家々を焼く払ったのだ。バーリンベラルーシ時代で唯一覚えている光景は、道端で毛布にくるまれながら、自分たちの小屋が焼け落ちる様子を眺めているシーンだという。着の身着のままで逃げ出した一家は、街から街へ、港から港へと転々とし、最終的に自由の国アメリカのニューヨークへとたどり着いたのだった。
恵まれた少年時代を過ごしたわけではなく、正式な音楽教育も受けたことがなかったバーリンだが、父親がユダヤ教の朗詠者だったこともあり、音楽的な素養は備えていたかもしれない。新天地でジャズやポピュラー音楽の洗礼を受けたバーリンは、ニューヨークのカフェでウェイター兼専属歌手により、曲を自作するようになる。次第に頭角を現し、1911年の「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」のヒットを皮切りに、「ショーほど素敵な商売はない」、「ブルー・スカイ」などのミュージカル向けの音楽を手掛け、大成功を収めた。

実はアメリカのブロードウェーミュージカルはユダヤ人の音楽家が作ったと言っても過言でなく、それがのちにハリウッドの映画音楽にも転じていくが、その中心にいたのがバーリンである。

また、ユダヤ人のバーリンが、ショービジネスの枠内とはいえ、前述の「ホワイト・クリスマス」(1942)や「イースター・パレード」(1933年)といったキリスト教にかかわる名作を残していることも特筆される。
もう1つ、バーリンが残した重要曲が、「ゴッド・ブレス・アメリカ」である。しばしば「アメリカ第2の国家」とすら称され、政治やスポーツの重要イベントで歌われることが多い。バーリンがこの曲を作詞・作曲したのは第一次世界大戦中の1918年だったが、当初は世に出ることはなかった。
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次に、チェス兄弟の生い立ちを見て見よう。2人はロシア革命前後の時期に、モトリ(現ブレスト州イヴィァノヴァ地区)という集落のユダヤ人街に生まれた。兄のレナード・チェスは1917年生まれでレイゾル・チジというのが元々の名前。弟のフィリップは1921年生まれで、フィゼル・チジというのが元々の名前だった。モトリを含む西ベラルーシ1921年ポーランド領となったが、赤貧の暮らしに耐え兼ね、父ヨシフは1920年代にアメリカのシカゴに渡る。ある程度生活が落ち着いたことを受け、ヨシフは1928年に兄弟を含む家族全員をシカゴに呼び寄せた。兄レナードは10歳、弟フィリップは7歳だった。アメリカ入国の際に、「チジ」というユダヤ人の姓では管理者に理解してもらえないので、姓を「チェス」に変え、名前もレナードとフィリップにした。のちに、チェス・レコードが創設だれた際際に、チェスの駒がロゴに用いられたが、元々は一家の姓はボードゲームとは何の関係もなかったわけである。
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青年となった兄レナードは、父親の廃品回収業を手伝ったちしていたが、1946年になると弟フィリップが徴兵から戻り、兄弟2人でナイトクラブを経営する。
奇しくも、ユダヤ人街に隣接して、同じように貧しい黒人たちが住んでおり、チェス兄弟の店でもそうした黒人が客層だった。店の風紀は悪かったが、大物も黒人アーチィスとの出演機会もあり、兄弟は客の反応から第集がブルースを求めていることを発見した。その経験を踏まえて、1947年に地元の独立レコードレーベル「アリストクラット」に経営参加、その経営の主導権を握り、1950年にはレーベル名も「チェス」に変更する。チャック・れりー、マディー・ウオーターズ、エタ・ジェームスらのタレントを発掘し、ブラックミュージックを代表するレーベルに登り詰めていく物語は、映画「キャデラック・レコード」にも描かれた。ユダヤ人と黒人はまったく出目が異なり、チェス兄弟には音楽の専門知識なども「なかったが。底辺から這い上がろうとする両者の熱情は結合し、ロックやソウルの原型となるようなエネルギー溢れる音楽を浮き出していったのだ。
これ以外にも。帝政ロシア西部をルーツとするユダヤ人で、米音楽業界で大成した人物は、枚挙に暇がない。