じじぃの「歴史・思想_342_エネルギーの世紀・日本車の登場」

Why i Love Japan ? Cars are of the the reasons

『探求――エネルギーの世紀(下)』

ダニエル・ヤーギン/著、伏見威蕃/訳 日本経済新聞出版社 2012年発行

内燃機関 より

自然の秘密

1900年にトーマス・エジソンは、フォードへの激励とは裏腹に、電気自動車のほうがガソリンエンジン自動車よりも好ましいさろうと、結論を下した。ガソリンを燃料とする馬なし馬車は、やかましく、臭く、煤が出るし、信頼できないから、本来の乗り物にはなりえないと、エジソンはこきおろした。容量が大きく、もっと軽くて信頼できる新設計の蓄電池に変えれば、性能向上によって蓄電池問題は解決できると確信していた。「人間が本気で熱心に探究すれば、自然は優秀な蓄電池の秘密を隠すほど非情ではないと思う」エジソンは友人に書き送っている。照明、発電、録音、映画は制服した。輸送も征服できるはずだ、
1904年、かなり苦労した末に、エジソンは大々的な宣伝を展開して、タイプE蓄電池(バッテリー)と呼ぶものを発表した。「電力の世界に革命を起こす」と新聞は報じた。あいかわらずショーマンのエジソンは、約束した。「超小型発電機をすべての家庭に……自動車1台をすべての家庭に」だが、Eバッテリーは約束された性能を発揮できず、漏れを起こすことが多かった。がっかりしたが屈しないエジソンは、研究所に戻り、さらに奮闘した。
この時期、自動車による輸送は、従来のありようを破壊するテクノロジーに付き物の批判を浴びていた。
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こういったなかで、輸送とはどうあるべきかについて、ある人物には明確な観点があった。1906年ヘンリー・フォードが書いている。「現在もっとも必要とされているのは。充分な馬力のある最新型のエンジンを積み、良質の材料で作られた。軽くて安い車だ」そういう自動車を作ろうと、フォードは決意した。
1908年、フォードは最初のT型を発表した。軽くて、馬力があり、価格はたった825ドルだった。

日本車の登場

1950年代末、見慣れない奇妙な車が、ロサンゼルスやサンフランシスコの道路でちらほらと見られるようになった。はじめて正式にアメリカに輸入された、トヨタトヨペットクラウンS30である。東京では、トヨペットはタクシーに使われていた。しかし、アメリカでは幸先がよかったとはいえなかった。最初の2台は、ロサンゼルスのいたるところにある坂を登りきることすらできなかった。サンフランシスコに届けられた最初の1台は、検査に向かう途中の急坂で寿命を終えたといわれている。サンフランシスコのディーラーは、宣伝のために公共図書館をバックで180周したが、効果はなかった。1999ドルのトヨペットは、まるでヒットしなかった。4年のあいだに売れた総台数は1913台にすぎない。日本の他の自動車メーカーもアメリカに輸出しはじめたが、販売台数はごくささやかで、車そのものも、あまり信頼できないへんてこな安物、初心者向けの車と見なされていた(当時もてはやされた輸入車フォルクスワーゲン・ビートルのような颯爽とした品格がなかった)。
だが、1970年代半ばに原油価格が暴騰し、それと同時に燃費が注目されると、自動車輸入の突破口がひらき、ことに日本車にはそれが有利だった。燃費のいい日本の小型車が、急に注目を浴び、人気が出た。やがて日本車は高級車市場に移りはじめ、品質と信頼性でも定評を確立した。
1980年代半ばは原油価格が崩壊すると、家計に占める自動車燃料の割合はふたたび小さくなった。新車の買い手は、ふたたび価格や性能や信頼性、それにむろん見かけに、目を向けるようになった。燃費は車を選ぶ基準のリストを(仮にリストに載ったとしても)急落した。しかし、アメリカのメーカーは、依然として燃費基準を達成することを求められていた。それと同時に、外国の自動車メーカー、ことに日本のメーカーは、幅広い人気を得て、より広範囲の大衆の求めをかなえる能力を実証していた。アメリカ市場での確固たる地位を築き、”外車”ではなくなるような戦略を進めていった。日本の自動車メーカーは、根をおろしはじめた――工場、研究開発センター、設計施設、合弁事業を、アメリカ各地で開きはじめた。それが、ビッグ・スリー労働組合の激しい反対を和らげるのに役立った。

新基準

2007年の下期、原油価格が1バレル100ドルに向かい、中東で紛争がつづいているなかで、燃費基準引き上げの政治的反対は消滅していった。2007年のエネルギー独立・安全保障法は、32年ぶりに燃費基準を引き上げ、2020年までに1ガロン当たり35マイル(1リットル当たり14.9キロメートル)に改善するという目標が定められた。
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法案成立の直前に、思いがけない衝突があった。新基準が議会で可決されたあと、法律として成立するのは、大統領の署名が必要とされる。それには、法案をホワイトハウスに届けなければならない。つまりだれかがペンシルベニア・アベニューまで車で行くことになる。2007年12月19日の午後、議会の書記官が届けた――それ自体は、通常の平凡な仕事だった。ところが、アメリカの自動車メーカーが激しく反対したこの法案は、日本のメーカーであるトヨタが製造している、燃費のいいハイブリッド車プリウスで届けられた。トヨタGMの最大の競争相手であるばかりか、その時点でGMを抜き、自動車製造台数で世界一の座を奪おうとしていた。それが偶然だと思わなかったものもいた。ミシガン州選出のある下院議員が怒り狂い、プリウスで届けられたのは、「アメリカのすべての自動車メーカーの顔を平手打ちした」ことになると非難した。
この間の悪い出来事は、むろん偶然だったが、世界が変りつつあるのを象徴していたともいえる。プリウスの販売台数は一気に伸びて、アメリカのトヨタのトップは、「これまでで最高に人気が出た車」だと表現した。消費者の求めるものの移り変わりと、ひとつの自動車時代からべつの自動車時代への移行が、市場でくっきりと示された。2007年、アメリカ国民は、かつてSUV販売台数が第1位だったフォード・エクスプローラーよりも多くのプリウスを買った。エクスプローラーは軽トラックが熱狂的に受け入れられた10年間、アメリカのSUVの象徴的存在だった。しかしいまでは、突然変異体として一部の人間にバカにされていた小型で燃費のいいハイブリッド車が、意外にも強大なSUVを打ち負かしていた。