じじぃの「歴史・思想_339_エネルギーの世紀・京都議定書」

JAPAN: KYOTO: CLIMATE CHANGE CONVENTION: AL GORE SPEECH

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oKRJAlT4dqw

京都議定書とは?合意内容とその後について

2010/09/14 WWFジャパン
京都議定書とは、温暖化に対する国際的な取り組みのための国際条約です。
1997年に京都で開催された国連気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)で採択されたため、「京都」の名が冠されることになりました。この取り決めに基づき、日本政府も1990年比で2008~2012年に6%の温室効果ガスの排出量削減を義務付けられました。
日本は、この目標は達成することができましたが、途上国に対して削減を義務付けない同議定書を不服とし、次の約束である第2約束期間(2013~2020年)には不参加となりました。
https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/3536.html

『探求――エネルギーの世紀(下)』

ダニエル・ヤーギン/著、伏見威蕃/訳 日本経済新聞出版社 2012年発行

グローバルな政治目標 より

炭素の市場を作る

京都議定書が発効するには、55ヵ国以上で批准されなければならなかった。グレンイーグルス・サミットの5ヵ月前の2005年2月、ウラジーミル・プーチンが署名して、ロシアが55番めの批准国になった。気候変動のリスクをプーチンが納得していたわけではなかった。それどころか、数度暖かくなれば、シベリアでは歓迎されるし、ロシアの農業にもありがたいと漏らしている――毛皮の帽子やコートを着る必要も減る。ロシアの批准は、WTO加盟要求の交換条件と見なされた。それに、炭素クレジット(排出枠)という”たわごと(ホット・エア)”を売れば、工業生産が落ち込んでいたロシアにとって、かなりの収入になる。
要するに、京都議定書はビジネスになっていた。しかし、炭素取引の実際的な市場を、どうやって創出すればよいのか? 結局、プロトタイプをまとめるのに10年以上もかかった。
1992年のリオ地球サミットの参加者のなかに、経済学者、コンサルタントノースウェスタン大学非常勤教授でもあるリチャード・サンダーがいた。サンダーは、前例のない市場を創出するのが得意だった。1970年代には、金利先物取引というビジネスを発明した。当初は突飛な概念だったが、いまでは1日何兆ドルも取引されている。サンダーの着想のなかには、あまり成功しなかったものもある――一度、合板先物市場について記事を書いている。1992年、サンダーは金融市場創出と、排出向けの金融市場を設置する話し合いのために、リオへ行った。他の分野の討論会をいくつか聞いたあとで、「賭博者破産の法則を確信した」という。「どれほど勝率が高くても、負けたら破産する勝負に賭けてはいけない。大惨事に終わる可能性があるとしたら、気候変動でリスクを負ってはならない」
ある午後、有名なイバネバのビーチで、サンダーはどうやって炭素市場を設計すればいいかを熟考した。「これはやれる」とつぶやいた。
サンダーは、炭素売買の取引所を設置しようと決意して、シカゴに帰った。やがてそれがシカゴ気候取引所と呼ばれるようになる。

ノーベル賞

2007年12月10日のオスロ市庁舎での出来事は、気候変動がグローバルな問題という地位を得たことを、なによりも象徴的に示していた。その日、ノルウエー議会の委員会がノーベル平和賞アル・ゴアIPCC気候変動に関する政府間パネル)に授与したのだ。
「私たちは、地球環境の共同救助を国際社会の中心的な編成方針となすことから、はじめなければなりません」受賞演説で、ゴアはそう述べた。世界は「一惑星の緊急事態」に直面している、と断言した。
授賞式の写真では、むろんゴアの顔はすぐに見分けられる。だが、となりに立っている人物はだれだろうか。いくぶん場違いなネール・ジャケットを着て黒い長髪と白髪まじりの顎鬚がつながっているように見える。「IPCCの顎鬚のある顔」と自己紹介した男は?
この人物は、ラジェンドラ・パチュウリというインド人経済学書でありエンジニアで、IPCCを代表して受賞したのは、その議長であるからだった。
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その後まもなく、パチュウリは気候変動の調査を開始した。1988年には国際エネルギー経済学会(IAEE)の会長に選出された。「温室効果はもはや抽象的理論ではありません」1988年の就任演説で、パチュウリはきっぱりと告げた。「この問題により深い関心を抱くのを先延ばしにするなら、近視眼的な狭い考えに陥る危険性があります」その発言は理解されず、もっとひどい反応を招いた。「頭がおかしくなったのではないかと思われた」と、パチュウリはのちに語っている。それからの歳月、パチュウリはインド政府でもっとも名高い環境問題顧問になり、国際的な気候変動関連の活動にいそしんでいる。
ノーベル賞受賞については、「たしかに注意を喚起した」という。それによってIPCCは世に広く認められ、国際的な役割も堅固になった。受賞の直後に、ヒューストンのエネルギー会議でパチュウリは、IPCCの警告は「理論や推測に基づいているのではありません。じっさいのデータに基づいています。現在、そういったデータは圧倒的に多数で広範囲にわたるので、疑いの余地はまったくありません」と述べた。