じじぃの「歴史・思想_336_エネルギーの世紀・中国・世界の工場」

China's entry to WTO in 2001

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HlBH73j88E4

2001年 中国WTO加盟

2001年 中国WTO加盟

2001年中国は念願のWTOに加盟できた。
これで徐々に各方面で国際舞台に戻ることに成功した。
http://blog.livedoor.jp/jinying/archives/2732968.html

『探求――エネルギーの世紀(上)』

ダニエル・ヤーギン/著、伏見威蕃/訳 日本経済新聞出版社 2012年発行

中国の勃興 より

過去ときっぱり決別する理由は明確だった――中国が今後必要とする石油のことを思うと背すじが寒くなるし、それを調達するのはきわめて困難な課題だった。もっとも、その晩はまだ、消費がどれほど急速に伸びるかは予見できていなかった。レストランの中庭で一同が佇んでいるとき、中国国営石油会社のCEOは当然の質問を受けた。どうしてわざわざ民営化するのか? 民営化すれば、経営陣は北京の政府上層部だけでなく、ニューヨーク、ロンドン、シンガポール、香港などの若いアナリストやマネーマネージャーにも説明責任を負うことになる。いずれも会社の戦略、経費、収益性を細かく吟味して判断を下す――経営陣全員の仕事ぶりにまで目を光らせる。
CEOがそんな”ビジネスチャンス”を楽しんでいるかどうかは、定かではなかった。しかし、CEOはこう答えた。「選択の余地はありません。改革するのであれば、自分たちの会社を世界経済に立ち向かえる水準にしなければなりません」
その当時、中国は世界の石油市場で弱小プレーヤーを脱しようとしていたが、どれほど大きな存在になるかはまだ明らかでなかった。しかし、中国が世界経済と急速に結びついていて、これまでよりもはるかに大きいあらたな役割を果たそうと変容していることは、明らかだった。
その晩餐会から数年のあいだに、中国のそういった変容は、世界経済やグローバルな力の均衡の方程式を変えていった。それによって、世界の相互依存はもっと強まるのだろうか? それとも、今後それによって、商業の競争や石油の奪い合いが激化し、資源を手に入れるために国と国とが衝突するリスクが高まり、資源を運ぶシーレーンでも同様のリスクが高まるのだろうか?

「できるだけ多くの石油を輸出しろ」

中国にはべつの理由(アメリカとの電撃国交樹立)もあった。文化大革命の最悪の段階は過ぎていた。鄧小平副主席などの上層部が、国の立て直しに取り組んでいた。自給自足ではうまくいかないことを、彼らは見抜いていた。中国は国の近代化と経済成長回復のために、世界のテクノロジーと装備を利用しなければならない。だが、きわめて大きな障害が立ちふさがっていた。そうした輸入の代価をどうやって支払うのか?
「石油輸出主導の成長」が、鄧小平の出した答えだった。「輸入するには、輸出しなければならない」と、1975年に述べている。「私の意識にある第1の候補は石油だ」中国は「できるだけ多くの石油を輸出しなければならない。その見返りに、多くのすばらしいものが得られる」
この時点で鄧小平はすでに、世界に門戸をひらく新戦略の最高責任者になりかけていた。第一次世界大戦後、フランスで学生や労働者だったころからずっと、揺るぎない共産主義者だった鄧小平は、中国に共産主義政権が打ち建てられると、最高指導者のひとりとして登場した。しかし、その後、文化大革命極左の政敵の攻撃目標になった。家族はたいへんな苦しみを舐めた。鄧小平の息子は2階の窓から突き落とされ、半身不随になった。文化大革命の期間、鄧小平自身も、トラクターの修理工場など、さまざまな場所で働かされ、独房に監禁されたこともあった。刑務所の中庭を何時間も歩きながら、毛沢東支配下でなにがどうまちがっていたのか、中国経済をどう立て直せばよいのかと自問した。いろいろな面で、鄧小平はつねに実用論者だった(第一次世界大戦後にフランスで共産党地下組織をまとめたときですら、中華料理店をはじめて繁盛していた)。国と個人の両方が負った文化大革命の大きな傷が、そのプラグマティズムと現実主義をいっそう強めた。

”石を模して(足で探りながら)河を渡る”など、鄧小平の基本的なモットーは実利を重んじるものだ。もっとも有名なのは、「白猫でも黒猫でも、ネズミを捕るのがよい猫だ」という言葉だろう。

世界の工場

鄧小平の”南巡講話”後数年のあいだに、中国は改革路線を固めて、グローバル経済との融合を進めた。1990年代は、相互の結びつきが強化された、あらたな経済の10年だった。1995年1月1日、貿易障壁を取り除き、グローバルな貿易と投資に便宜をはかるために、WTO世界貿易機関)が設立された。世界貿易は、世界経済そのものよりもずっと急速に成長していた。欧米企業は、世界のさまざまな場所から部品を集め、べつの場所で組み立て、できあがった商品をコンテナに入れて、世界各地の顧客へ船で輸送するサプライチェーンを設立していた。中国のWTO正式加盟は2001年だったが、その前からずっと、グローバルなサプライチェーンというこの新しいシステムで要の役割を果たしていた。
中国沿岸の至るところに工場が建設され、”中国製”という表示が、世界中に送られるありとあらゆる製品にかならず付いているようになった。中国は、2世紀前のイギリスとおなじように、”世界の工場”と呼ばれるようになった。