じじぃの「歴史・思想_235_中国の行動原理・鄧小平から江沢民へ」

【真実の江沢民】第3回 江沢民GDP(上)|新唐人

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『中国の行動原理-国内潮流が決める国際関係』

益尾知佐子/著 中公新書 2019年発行

政経分離というキメラ――鄧小平から習近平へ より

1976年9月に毛沢東が死去すると、翌月、華国鋒は老幹部たちと協力して四人組の逮捕に踏み切り、文革はようやくここに終結する。
10年間におよぶ長期間、大規模な政治動乱により、このとき中国共産党の統治は危機にあった。人民の間では、親しい家族や友人による裏切り行為が横行し、造反と暴力が道徳心を蝕(むしば)み、個人のささやかな幸せは奪われたままだった。大規模な飢餓こそ発生しなかったものの、経済活動は長期停滞し、衣食住はどれもまったく不足していた。端的に言えば、中国共産党はすでに人民の信頼を失っていたのである。
こうした危機的状況を打開するため、まずは経済建設を進めて人民生活の改善を図ろうとする点は、華国鋒をはじめ、多くの幹部たちのコンセンサスだったようだ。ただし、毛沢東の遺訓だった政治闘争を継続するかどうか、どの程度の規模で、どういった手法で経済建設を進めるのかという具体論では意見が割れた。そのなかで、国際環境を活用し、対外開放を行って大胆な経済建設を進めるべきと、最も力強く主張したのが鄧小平だった。

なぜ市場経済を導入したか

鄧小平は1977年夏に3度目の復活を遂げると、政治的素質ではなく試験の点数で合格者を判断する大学入試をすぐに復活させた。これにより、農村に下放され出口のない生活をしていた知識青年たちの支持を得る。
1978年からは日米欧の資本主義先進国と積極的に関係改善をはかり、大規模な技術導入を進めて、中国の経済的な体力の底上げを図った。さらに、この年から経済視察団を各国に派遣し、自らも8月の日中平和友好条約調印、10月の訪日、11月の東南アジア3ヵ国訪問、12月の米中国交正常化交渉、欲1979年1月末からの訪米を成功させ、中国の人々を希望に導く新たな「潮流」の創出に成功した。
そして彼自身も、この流れに乗って中国の最高指導者となった。1978年12月に開かれた中国共産党中央第11期3中全会で鄧は華国鋒から禅譲を受け、改革開放への邁進を始める。
以上の経緯からわかるのは、筋金入りの共産主義者だった鄧小平の市場経済導入は、あくまで党を守るため、具体的には壊滅的な状態にあった人民の党への支持を回復するためだった。

南巡講話――市場経済への一貫した支持

ただし鄧小平は、経済建設を軽視してはならないという信念を持ち続けていた。それが最もよく表われたのは、1992年の南巡講話である。
当時、第2時天安門事件ソ連・東欧の社会主義政権の崩壊で、中国共産党内のムードは一気に保守化していた。陳雲ら保守派は社会主義体制への危機感を強めて経済引き締め策をとり、GDP成長率は1988年の11.2%から、89年には4.2%、90年には3.9へと低下定価し、国内経済は冷え込んだ。
経済建設の頓挫を懸念した鄧小平は、1992年1月の旧正月、休暇の名目で深圳や珠海など広東省経済特区に赴き、視察して回る。このとき彼はすでに87歳だった。そして、香港のテレビに映るようにわざと、カメラの前で「発展こそが正しい道だ」と地方幹部に檄(げき)を飛ばして回った。保守派の裏をかくこの行動で、鄧小平は中国南部で人々の経済発展への期待に再度火をつけることに成功し、その勢いで北京の雰囲気を巻き返して、中国を再び「市場経済」の軌道に引き戻した。
こうして、中国共産党の統治を継続するため、党が市場経済を奨励して経済発展を実現する「統治の鄧小平方式」が確立した。世界の他の国から見れば、これは奇妙なキメラ体制である。しかし中国国内では、そう不自然と思われていない。
第1に、計画経済で人々の生活が向上しないことは、誰の目から見ても明らかだった。これはソ連と東欧で相次いで社会主義政権が崩壊したことからもわかる。しかしそれでも、父なる中国共産党を権力の座から引きずり下ろすことには、大半の人々が躊躇を覚えた。現実的な折衷案が、中国共産党の統治と市場経済を組み合わせるキメラ体制であった。
第2に、中国には皇帝の強い世辞的権威の下、比較的自由に商工業が発達した長い歴史があった。これは中国全土でそうだったが、特に南部では、1950年代まで海外との自由な貿易活動に従事していた人々が多く、国際経済のダイナミズムを理解する経験者が生き残っていた。鄧小平は華僑を多数輩出した南部の広東省福建省に、最初の経済特区を設立している。キメラ体制には、歴史的な継続性もあったのだ。
このように中国は、社会主義の経験を踏まえた現実と、国内社会も一定の伝統に基づいて、中国共産党の権威を保ちながら人々に自由な経済活動を奨励する道をめざし始めた。鄧小平の指導者たちは、この「統治の鄧小平方式」を基本的に継続していく。

江沢民への郷愁、評価

計画経済から市場経済への体制移行が本格的に進んだのが、江沢民の時代である。中国は1986年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)への加盟申請をしていたが、社会主義気にで経済規模の大きい中国の参加に世界は慎重になった。そのため、中国にはその後身のWTO世界貿易機関)への加盟もなかなか認められず、前例のない15年の長期交渉が行なわれた。その間に中国は、迫り来る国際化時代の優等生になろうと各種方面で準備を進めた。
経済面では、中国は東アジアの近隣諸国だけでなく、欧米などからも積極的な外資導入を図り、生産性の低い国有企業を整理した。中国企業の国際競争力の向上をめざし、産業構造の改善を進めた。
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江沢民の治世の後期、全国では急速に都市化が進み、人々は自転車やバスから地下鉄やマイカーに乗り換えた。愛想も品揃えもない国営商店は淘汰され、新興中間層は中国に進出したフランスのカルフールスウェーデンのイケアで好奇心と購買意欲を満たした。のどかな農村部では固定電話導入の段階を飛び越えて携帯電話が普及し、テレビ衛星が辺境の地にハリウッド映画や日本アニメを届けた。
世界と中国の距離は急速に縮まり、誰もがそれをよいことだと考えていた。中国経済の初期レベルが低かったため、党指導部が指し示したグローバル化への反対は少なく、国家は一丸となって同じ方向にダッシュできた。2001年7月には北京市が08年オリンピックの誘致に成功し、年末には中国がWTOへの加盟を実現した。