じじぃの「歴史・思想_236_中国の行動原理・胡錦濤から習近平へ」

China’s Vanishing Muslims: Undercover In The Most Dystopian Place In The World

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=v7AYyUqrMuQ

Could China Take Taiwan By Force?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=d9MC5ELG3OM

Taiwan has warned about China's military drills

World War 3: Taiwan ready for battle as fears grow of Chinese INVASION

Thu, Dec 28, 2017 Express.co.uk
Beijing’s communist leaders have never renounced their claim that the island is China’s territory and have not ruled out the use of force.
And Beijing has taken an increasing hostile stance since President Tsai Ing-wen, from the pro-independence Democratic Progressive Party, won Taiwan’s elections last year.
https://www.express.co.uk/news/world/897295/Taiwan-China-invasion-World-War-3-US-Beijing-Tsai-Ing-wen-Chinese-army

『中国の行動原理-国内潮流が決める国際関係』

益尾知佐子/著 中公新書 2019年発行

政経分離というキメラ――鄧小平から習近平へ より

1976年9月に毛沢東が死去すると、翌月、華国鋒は老幹部たちと協力して四人組の逮捕に踏み切り、文革はようやくここに終結する。
10年間におよぶ長期間、大規模な政治動乱により、このとき中国共産党の統治は危機にあった。人民の間では、親しい家族や友人による裏切り行為が横行し、造反と暴力が道徳心を蝕(むしば)み、個人のささやかな幸せは奪われたままだった。大規模な飢餓こそ発生しなかったものの、経済活動は長期停滞し、衣食住はどれもまったく不足していた。端的に言えば、中国共産党はすでに人民の信頼を失っていたのである。
こうした危機的状況を打開するため、まずは経済建設を進めて人民生活の改善を図ろうとする点は、華国鋒をはじめ、多くの幹部たちのコンセンサスだったようだ。ただし、毛沢東の遺訓だった政治闘争を継続するかどうか、どの程度の規模で、どういった手法で経済建設を進めるのかという具体論では意見が割れた。そのなかで、国際環境を活用し、対外開放を行って大胆な経済建設を進めるべきと、最も力強く主張したのが鄧小平だった。

江沢民への郷愁、評価

計画経済から市場経済への体制移行が本格的に進んだのが、江沢民の時代である。中国は1986年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)への加盟申請をしていたが、社会主義気にで経済規模の大きい中国の参加に世界は慎重になった。そのため、中国にはその後身のWTO世界貿易機関)への加盟もなかなか認められず、前例のない15年の長期交渉が行なわれた。その間に中国は、迫り来る国際化時代の優等生になろうと各種方面で準備を進めた。
経済面では、中国は東アジアの近隣諸国だけでなく、欧米などからも積極的な外資導入を図り、生産性の低い国有企業を整理した。中国企業の国際競争力の向上をめざし、産業構造の改善を進めた。
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江沢民の治世の後期、全国では急速に都市化が進み、人々は自転車やバスから地下鉄やマイカーに乗り換えた。愛想も品揃えもない国営商店は淘汰され、新興中間層は中国に進出したフランスのカルフールスウェーデンのイケアで好奇心と購買意欲を満たした。のどかな農村部では固定電話導入の段階を飛び越えて携帯電話が普及し、テレビ衛星が辺境の地にハリウッド映画や日本アニメを届けた。
世界と中国の距離は急速に縮まり、誰もがそれをよいことだと考えていた。中国経済の初期レベルが低かったため、党指導部が指し示したグローバル化への反対は少なく、国家は一丸となって同じ方向にダッシュできた。2001年7月には北京市が08年オリンピックの誘致に成功し、年末には中国がWTOへの加盟を実現した。

胡錦濤政権の憂鬱――失われた鄧小平の「遺産」後

ところが、こうした良好な条件は、2002年11月に胡錦濤江沢民から総書記の地位を引き継ぐ頃には徐々に失われていた。
WTO加盟後、中国には世界中から製造業の工場移転が相次ぎ、中国は「世界の工場」と呼ばれて急速に富を蓄積していく。そのGDP規模は2010年には日本を抜き、世界第2位に躍り出た。しかし同時に、中国国内の所得格差は拡大し、ジニ係数は社会騒乱が多発するとされる0.4を超え、2005年頃には推計0.48程度と危険水域に達する。大衆騒乱が多発し、北京オリンピックの前後にはチベット新疆ウイグル自治区でも大規模な民族運動が起きた。胡錦濤政権は発足当初からSARS騒動に見舞われたが、経済発展とともに国内の環境が悪化し、PM2.5問題では既得権益層からも政権への反感が高まった。
胡錦濤江沢民と同じく、鄧小平が指名した次世代の後継者で、1992年の第14回党大会で党中央政治局常務委員に抜擢された。胡錦濤開明的な優等生で、総書記就任直後には「平和的台頭」論(のちに「平和的発展」と改名)などを出し、日本とも関係改善を望んでいたとされる。

伝統に根付く指導者、習近平

胡錦濤時代をこのように見ると、胡錦濤の問題意識はクリアーになる。
習近平は、反腐敗の名目で政敵を完全に抹殺し、総書記の任期制を廃止し、毛沢東時代のような永世党主席の復活をめざしていると言われる。習近平は、胡錦濤政権の国内凝集力の乏しさを聞きと捉え、本人としてはおそらく党、そして中国を救うつもりで、自分の下に強権的に権力を集中しているのだろう。人々に畏怖されることで国内凝集力を高め、国家を統治していこうとするその方法は、完全に中国の伝統に則してしる。
対外関係の活用の仕方も同様である。習近平は就任1年以内に「一帯一路」を唱え、中国の経済力を対外関係のために活用していく組成を示した。習近平政権は、領土問題できわめて厳しい国際環境のなかでスタートしている。中国の経済力の工場を踏まえ、彼は国内のみで行っていた統治の鄧小平方式、つまり経済的な利益の共有によって中国共産党の存続を民に認めさせるやり方を、国際社会に向けても行うという発想をとった。
「一帯一路」は、国内政治に第1のプライオリティを置く指導者が、自らの国内的権威付けのために立ち上げたという側面も持つ。「わが中国の指導者は世界をも幸せにしている」と自分の人民に信じさせることができれば、家父長の初期の目的は満たせるのだ。
これに加えて、習近平は「人類運命共同体」を実現していくという主張も唱え始めている。このスローガンは、まさに中国社会の伝統を想起させる。
繰り返しになるが、中国の伝統的な家族制度は「共同体」であった。「人類運命共同体」は、「世界革命」を世界の理想として描けなくなった中国共産党の最高指導者が、それに代わる世界の理想として提起したものである。ただしこれは、国際問題を話し合いで解決するなど当たり前のことを主張し、実質的な中身に乏しい。

習近平は国際会議を次々とホストすることで、あたかも自分が「人類運命共同体」の頂点のように振る舞い始めている。ただし、中国の家父長に統治されるあやふやな「人類運命共同体」が、その他大勢の国々にも理想として共有されることは、実際には相当難しい。