じじぃの「歴史・思想_321_ユダヤ人の歴史・バビロン捕囚・ユダヤ教の成立」

The Books of Ezra-Nehemiah in 5 Minutes

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EEofcZCLKiU

Short Bible Story! The Story Of Ezra Part 1! Ezra Rebuilding The Temple Part 1

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W1h-4rkJwtk

THE ISRAEL BIBLE:Ezra and Nehemiah

名著33 「旧約聖書」:100分 de 名著 「第3回 聖書の成立」

2014年5月21日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光武内陶子 【ゲスト講師】加藤隆(千葉大学文学部教授)
戦乱が続く中、残っていた南王国も戦いに敗れて消滅。
ユダヤ人たちは敵国の首都バビロンへ連行され捕囚となってしまった。しかし人々の多くは、出エジプトのよう出来事を神に期待し、信仰を守り続けた。こうした中、聖書の成立にあたり、ある重要な出来事があったと加藤隆教授は考えている。
第3回では、旧約聖書が生まれた背景を学ぶと共に、そこに記された掟がどのような影響を与えたかを考える。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/33_kyuyakuseisho/index.html#box03

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

最初のユダヤ人エレミヤ より

イザヤのメッセージがエルサレム陥落の前に、人々の良心に浸透したことは疑いない。しかし破局が訪れる前の最後の数十年間、イザヤの力強い声に、彼ほど詩的ではなかったが同じように心を強く打つもう一人の預言者が加わった。このエレミヤという預言者については、捕囚以前に活躍した他のいかなる著作者よりも、多くのことがわかっている。説教と自伝を、書記の役をつとめた弟子バルクに口述筆記させたからである。
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アッシリア人の北王国蹂躙とバビロニア人によるユダの攻略には、しかしながら1つ決定的な差があった。バビロニア人はアッシリア人ほど残虐でなかったのである。彼らは被征服地への植民を行なわなかった。東から異民族が移り住み、約束の地を異教の聖所で覆うということがなかった。貧しい人々、すなわちアム・ハ・アレツは、指導者を失ったものの、何とか自分たちの宗教を保つことができた。さらに588年に降伏したと思われるベニヤミン族は捕囚の憂き目にあわず、彼らの町、ギブオン、ミツバ、そしてペテルには、手がつけられなかった。それでもなお、民族はすっかりばらばらになった。それは捕囚であると同時に離散でもあった。

神殿再建 より

ペルシアの国王キュロスの支持と命令にもかかわらず、紀元前538年、かつてのヨヤキンの息子と考えられるシェシュバツァルの統率のもとに行われた最初の帰還は、失敗に終わった。アム・ハ。アレツと呼ばれる故郷に留まった貧しいユダヤ人たちが抵抗し、サマリア人エドム人、アラブ人と協力して帰還者たちが城壁を築くのを妨げたからである。
キュロスの子ダレイオスの全面的支援を受けた第2の帰還の試みは、紀元前520年いなされた。その正式な指導者はゼルバベルである。ダビデの子孫であるのに加え、ペルシャのユダ総督に任命されたことによって、その権威は高まった。聖書によれば、4万2360人の捕囚民がゼルバベルとともに帰還したという。その中には多数の祭司と書記が含まれていた。これを契機にエルサレムで新しいユダヤ教正統派が出現する。
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紀元前458年、エルサレムの居住地は、エズラに率いられる第3波の帰還者集団によって増強される。エズラは祭司であり書紀であり、博識で権威ある人物であった。異端、雑婚、そして土地の所有権をめぐる紛争に発した法律問題を解決しようと努力したが、結局失敗に終わる。最後に、紀元前445年、新たな一隊がエズラのもとに到着した。彼らを率いたのは、ネヘミヤという名の指導的ユダヤ人である。

書記エズラと正典の編纂 より

紀元前400年から200年までは、ユダヤ史の失われた世紀である。偉大な出来事も大きな奇禍(きか)も、まったく記録に残されていない。彼らは幸福であったのかもしれない。ユダヤ人は、君臨したあまたの統治者のなかでも、とりわけペルシャ人を好いたようである。一度も反乱をおこなさかった。それどころかユダヤ人の傭兵は、ペルシャ人がエジプトの反乱するのを手助けした。ユダヤ人は自分たちの宗教を、故国ユダでもペルシャ帝国のどこでも、自由に信仰するすることができた。
そしてまもなく非常に広い地域に定住するようになる。この離散の様子をかすかに伝える書物に、紀元前5世紀頃のメディアに舞台を求めた、トビト記がある。もう1つ、エゼキエルが住んだ地から遠くないニッブルの町で、紀元前455年から403年の間に書かれた、650枚にのぼる楔形(くさびがた)文字の商業文書がある。この中に現れる人名の8パーセントは、ユダヤ系である。さらにナイル川上流エレファンティネ島植民地からユダヤ人2家族が所有した文書庫がみつかっていて、その地の生活と宗教について伝える。記録の残っている離散ユダヤ人のほとんどは、裕福な生活を送り、自分の宗教を忠実に守っていたようにみえる。彼らが信仰したのは新しい正統派の宗教、すなわちユダヤ教であった。

黙して語らないものの、失われた200年間は決して実りのない年月ではなかった。旧約聖書が今日われわれの知っている形にほぼまとまるのは、この時代である。再建されたエルサレムでネヘミヤとエズラが完成させた。

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「正典」が初めて出現するのは、「モーセ五書」として知られ、後にユダヤ人が「トーラー」と呼ぶ、聖書の最初の書物5巻が文字にされたときである。最も原始的な形でならば、「モーセ五書」はサムエルの時代におそらくすでに存在しただろう。しかし現在残っている形は、5つあるいはそれ以上の数の伝承を1つにまとめたものである。本来のモーセの書物にまでさかのぼる。ヤハウェという神名を用いる南部起源の伝承。やはり非常に古い、神をエロヒームと呼ぶ北部起源の伝承。ヨシヤによる改革の時代に神殿で発見された「失われた」書である申命記、あるいはその一部。そして研究者の間で「祭司法典」、「神聖法典」と呼ばれる伝承。この最後の2つは、どちらも宗教的祭儀がしだいに形を整え、祭司階級が厳格な訓練を受けた時代にさかのぼる。
したがって「モーセ五書」は、必ずしも一貫した内容の著作物ではない。しかしドイツにおける資料批判の伝統に属する学者たちが唱えるように、捕囚時代以降の祭司たちが自らの利益がからんだ宗教的信仰を人々に押しつけるため、モーセとその時代の著作物だと偽って故意に捏造したものでもない。われわれはヘーゲルの思想、反教会主義、アンティ・セミティズム、そして19世紀の知的風俗が醸成した学問的偏見によって、これらの著作物に対す見方を曇らせてはならない。
各書物を記述し1つにまとめた人々と、捕囚から帰還後正典が編纂されたときそれを筆写した書記たちは、神から受けた霊感によって古代の文献が成立したことを。露ほども疑わなかった。そして尊敬をこめ、可能な限りの正確さをもって書き写した。彼ら自身が明らかに理解に苦しんだ箇所にさえ、何も変更を加えなかった。文献の厳密な検討から得られる証拠は、すべてこの見解を裏書きしている。実際、「モーセ五書」の本文そのものに、原文を決していじるなとの神の厳粛な警告が2度現れる。「わたしが命ずる言葉に何1つ加えてはならない。またそれを減らしてはならない」(申命記4章2節、13章1節)。