じじぃの「歴史・思想_317_ユダヤ人の歴史・北のイスラエルと南のユダ」

The Kingdom is Israel Divides Bible Animation (1 Kings 11:26-12:33)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vjtRRmQt-5k

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

統一王国の分裂 より

ソロモンが紀元前925年/926年に息を引き取ったとき、北部人は彼の後継者レハブアムがエルサレムで統一王国の王位につくのを拒否し、シケムまで来て北王国の王として戴冠することを要求した。ソロモンの治世のもとで亡命していたヤロブアムのような人々がイスラエルに戻り、法に基づいた統治を求め、特に強制的徴用と過酷な撤廃を要求した。「今、父上の過酷な労役と父上がわれわれに課した重いくびきを軽くせよ。そうすればわれわれはあなたに仕える」(列王記上12章4節)。このためシケムで、大規模な政治集会が開かれたらしい。レハブアムは父ソロモンに仕えた年老いた者たちの意見を求めたが、融和的姿勢をとるようにとの老人たちの助言をしりぞけ、結局若い騎士たちに支持された強硬な方針を採用する。そして北部の人々に告げるのである。「父はお前たちのくびきを重くしたが、わたしはもっと重くする。父はむちでお前たちを懲らしめたが、わたしはさそりでお前たちを懲らしめる」(列王記上12章14節)。
この誤った判断によって、統一王国の命運は断たれた。レハブアムは力ずくで統一を維持するだけの軍事力と戦術を有していなかった。北部人は王国を離脱し、彼ら自身の王朝を打ち建てる。アッシリアバビロニアと続く帝国の興隆時代、南のユダと北のイスラエルというこれら2つの小さな王国は、運命の坂を別々に転げ落ちるのである。

サマリアの興亡 より

紀元前9世紀を通じて、アッシリアは勢力を増し続けた。シャルマナサル3世の石碑、黒色オベリスクは、すでにイエフの時代、イスラエルアッシリア朝貢するのを強制されていたことを示している。しばらくの間、イスラエルアッシリア人に金品を贈って懐柔するのに成功した。あるいは他の小国家と同盟を結んで、その侵攻をくい止めた。しかし紀元前745年、アッシリアの王として即位した残虐なティグラト・ピレセル3世は、好戦的なアッシリアを一大帝国に転換させる。この王は、征服した領土の住民を大量に捕囚とする、新たな政策に着手した。
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734年から33年にかけて、アッシリアガリラヤと東ヨルダンを手中におさめる。残ったのはサマリアだけであった。727年にティグラト・ピレセル王は死ぬが、その後継者シャルマナサル5世は、722年から21年にかけての冬にサマリアを制圧する。
翌年、次の王サルゴン2世が、北王国の滅亡を完了した。そして指導者層の人間をすべて捕囚とし、代わりに植民者を送り込んだ。「わたしはサマリアを包囲し陥落させた」、「そこに住む2万7290人を捕囚とした」とサルゴン王は、コルサバドの年代記に記した。列王記下は、次のようにこの悲劇を記録する。「イスラエルはその土地からアッシリアに移されて今日に至っている。アッシリアの王は、バビロン、クト、アワ、ハマトおよびセファルワイムから人々を連れて来て、これをイスラエルの人々の代わりにサマリアの町々に住まわせた。この人々がサマリアを領有してその町々に住んだ」(列王記下17章23-24節)。大量の考古学的資料からも、破局的変動が起きたことは明らかである。サマリアでは王の居住区が完全に破壊された。ハツォルの城壁は引き倒され、シケムも完全に姿を消した。ティルツァも同様である。
こうしてユダヤ史上最初の大悲劇が起きた。それはまた、究極的な国家再興によって癒(いや)しようがない悲劇であった。北イスラエルの民の虐殺と離散が、この民族の存在に終止符を打ったからである。捕囚民となりアッシリアへ最後の旅に出発した北10部族は、歴史から姿を消し、神話の中に埋没してしまう。彼らはのちのユダヤの伝説に生き続けたものの、現実には周辺のアラム人社会に吸収され、固有の信仰と言語を失ってしまった。アッシリア帝国の共通言語となったアラム語が西に広がったことにより、彼らが消滅していく過程はあまり目立たずに済んだ。
サマリアにはイスラエルの農民と職人がとどまり、新しい定住者たちと婚姻関係を結ぶ。この時代の悲しい出来事を記録する列王記下17章は、アッシリアの捕囚となってもヤハウェを礼拝し続けた支配階級の者たちが、祭司の一人を送り返してペテルに住まわせ、指導者を失った民を導かせたと記している。しかし同時にこうつけ加えてもいる。「諸国の民は各々自分の神々を造り、これをサマリア人が造った高き所の家々に安置した」(列王記下17章29節)。その上で列王記下は、異教に染まった北王国が陥った、恐ろしい混乱の有様を描く。
北の人々によるヤハウェ礼拝の内容に、南ユダの人々は常に疑いの目を向けていた。北の宗教の正当性にかかわるこの疑惑は、エジプトへ移り住んだとき生じたイスラエル人の間の対立に発している。この反目は出エジプトとカナン征服のあとも、決して完全に氷解することがなかった。エルサレムの人々とその祭司たちの目には、北部人が常に異教徒と交わってきたように見えた。北王国の陥落と離散、そして残存した者たちと外国人の婚姻は、サマリア人イスラエルの伝統を共有する者ではないとの見解に、根拠を与えた。自分たちも選民の一部であり、約束の地に住みその土地を所有する完全な権利を有するというサマリア人の主張を、この時点以降、ユダヤ人は一度として認めようとしなかった。