じじぃの「歴史・思想_319_ユダヤ人の歴史・預言者・エレミヤ」

Babylonian Conquest and Destruction of the First Temple

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The Babylonian invasion of Judah

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

最初のユダヤ人エレミヤ より

イザヤのメッセージがエルサレム陥落の前に、人々の良心に浸透したことは疑いない。しかし破局が訪れる前の最後の数十年間、イザヤの力強い声に、彼ほど詩的ではなかったが同じように心を強く打つもう一人の預言者が加わった。このエレミヤという預言者については、捕囚以前に活躍した他のいかなる著作者よりも、多くのことがわかっている。説教と自伝を、書記の役をつとめた弟子バルクに口述筆記させたからである。
エレミヤの生涯は、祖国の悲劇的な歴史と密接に重なり合っていた。ベニヤミン族の一員、エルサレムのすぐ北東にある村の出身で、祭司の家に生まれている。ホセアの伝統に従い、また、ある程度イザヤの影響を受けて、紀元前627年に説教を始めた。エレミヤは民が恐ろしいほど罪深く、破滅に向かってつき進んでいると見た。「この民には強情で逆らう心がある」(エレミヤ書5章23節)。ホセアが感じたとおり、祭司であれ、書記、「賢人」、神殿の預言者であれ、既存の宗教指導者層の行動を待っている暇はなかった。「預言者は偽って預言をし、祭司は自分勝手に治め、わが民はそれを好む。しまいにお前たちはどうするのか」(5章31節)。
エレミヤはヨシヤ王のもとで着手された神殿主体の大宗教改革を、完全な失敗とみなした。そして紀元前609年に王が死んだ直後、神殿に行って改革を弾劾する激しい説教を行なった。このためもう少しで殺されそうになり、神殿の聖域に近づくのを禁じられる。彼の生まれ故郷の村人や、彼の家族までもが、彼に背を向けた。結婚もできず、そうしようともしなかった。
孤独と孤立の中で、エレミヤの著作の中に、今日であれば強迫観念的と呼べそうな兆候が現れる。「わたしが生まれた日は呪われよ」(20章14節)と彼は記す。「何故わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は癒えないのか」(15章18節)とも言う。「わたしに対して謀(はか)りごとをめぐらす」敵に囲まれているように、また「わたしは屠(ほふ)り場に引かれて行く子羊か雄牛のようだ」(11章19節)と、感じるのである。これらの記述には、根拠があった。エレミヤは説教を禁じられただけでなく、その著作物はすべて焼かれたのである。
エレミヤが嫌われたのは、もっともである。彼が「北からの敵」と呼んだネブカドネツァル王とその軍勢が日に日に増し、王国すべての人々が何とかこの災難から逃れる道がないものかと模索しているときに、エレミヤは敗北主義を説いているように見えたからである。民とその支配者たちとは自分たちの邪悪さゆえに、この危険を自ら招いたのだとエレミヤは言った。敵は神が怒りを表現する手段にすぎない。だから逆らってもしかたがない。この託宣(たくせん)は、縁起の悪い宿命論としか聞こえなかった。悲歎、泣き言を英語で「ジェレマイアド」と呼ぶのは、ここから来ている。
しかし同時代人は、エレミヤの主張のもう1つの側面、すなわち希望を抱く理由があるというメッセージを、理解できなかった。王国の滅亡はそもそも大したことではない。イスラエルは依然として神が選んだ民である。小さな民族国家の枠内にとどまらず、捕囚と離散の境涯にあっても、神が彼らに与えた使命を成し遂げることは十分可能であると、エレミヤは説いた。イスラエルと神との絆は、軍事的敗北によって揺らぎはしない。なぜならそれは目に見えず、したがって破壊することができない性質のものだからである。エレミヤは絶望を説いているのではなかった。まったく逆に、彼は同胞のイスラエル人に絶望に備え、それを乗り越える準備をさせたのである。どうしたら彼らがユダヤ人になれるかを、教えようとした。征服者の力に屈し、その支配に順応し、敵対関係の中で最善をつくし、神の正義の恒久的な確かさを、一人ひとりが心の中で大切にするよう説いたのである。
人々はこの教えを必要としていた。第1神殿時代が終わりに近づいていたからである。エレミアが神殿で説教をする3年前、アッシリア帝国は突如崩壊する。それによって生じた力の真空を、バビロニアの新勢力が埋めた。
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アッシリア人の北王国蹂躙とバビロニア人によるユダの攻略には、しかしながら1つ決定的な差があった。バビロニア人はアッシリア人ほど残虐でなかったのである。彼らは被征服地への植民を行なわなかった。東から異民族が移り住み、約束の地を異教の聖所で覆うということがなかった。貧しい人々、すなわちアム・ハ・アレツは、指導者を失ったものの、何とか自分たちの宗教を保つことができた。さらに588年に降伏したと思われるベニヤミン族は捕囚の憂き目にあわず、彼らの町、ギブオン、ミツバ、そしてペテルには、手がつけられなかった。それでもなお、民族はすっかりばらばらになった。それは捕囚であると同時に離散でもあった。多くの者が、北のサマリアあるいはエドムやモアブに逃れたからである。エジプトへ向かった者もいる。その中にはエレミア自身が含まれていた。
エルサレム最後の日々、エレミヤは非常な頑固さを見せ、勇気ある行動をとった。そして抵抗は無駄だ、ネブカドネツァルはユダの邪悪さを罰するために送られた神の代理人にすぎないと、繰り返し強調した。このため彼は拘束された。町が陥落したあと、エレミヤはそこに残って貧しい者たちと生活を共にしたいと望む。しかし市民の一団が彼を無理やり引きずっていって、エジプトの国境の彼方へ住み着いた。すっかり年老いたエレミヤは、そこで神の怒りを引き起こした罪を非難しつづけ、自分の信仰を「残れる者」、「わずかの者」に託す。いつの日か歴史が自分の言葉の正しさを証明する、彼らはそれを見届けてくれるはずだと確信しながら、エジプトの地で、その声はしだいにか細くなり、やがて沈黙が訪れた。エレミヤこそは、最初のユダヤ人であった。