じじぃの「神話伝説_122_イザヤ書・主の恵みの業(旧約聖書)」

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主よみもとに近づかん 賛美歌320番 動画 YouTube
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イザヤ書61・1〜7 日本基督教団公式サイト
61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
http://uccj.org/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/7187.html
イザヤ書を読む 旧約聖書5』 本田哲郎/著 筑摩書房 1990年発行
解放はすべての人に――むすび―― (一部抜粋しています)
すでにバビロニアの捕囚は終わり(前539年)、現地残留を望む者を除いて、すべての民は聖地イスラエル(かつての縮小されたユダ王国)への帰還を終了しました。捕囚の期間はおよそ60年、最後の捕囚から数えても40数年あり、帰国した民の大部分はバビロニアで生まれた新世代の人々でした。かつて、モーセと共にエジプトから解放されて、40数年間の荒れ野の旅の後、カナンの地に入ったのも、エジプトでの苦しみを知らない新世代の人々だけでした。(ヨシュア記5・6)。古い”切り株”から芽生えた”若枝”でした。彼らの手によって、ある程度、町々は復興され、エルサレムの神殿も再建されました。そして、再び神殿を中心にした宗教的社会生活が営まれるようになっていました。
この預言をもって始められるイザヤ書56章以下は、すべて、帰国後の民に向けられて語られており、おそらくキュロスによる捕囚解放の年(前539年)から数十年を経過したころの預言を集めたものと思われます。かつては”第3イザヤ”と呼ばれた預言者(たち)によるものと想定されたことがありましたが、今日では第2イザヤに属する預言者(たち)によるものと考えられています。実際、第2イザヤの預言の思想をほとんどそのまま受け継いでいます。第2イザヤの預言の”むすび”の役割を果たしていると言えるでしょう。
 正義を守り、恵みの業を行え。
 わたしの救いが実現し
 わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
 いかに幸いなことか、このように行う人
 それを固く守る人の子は。
 安息日を守り、それを汚すことのない人
 悪事に手をつけないように自戒する人は。
 主のもとに集(つど)って来た異邦人は言うな
 主は御自分の民とわたしを区別される、と。
                   (56・1-3)
「正義を守り、恵みの業を行え」。バビロニア捕囚からの帰還後、人々の生活がかなり安定し、多少とも繁栄を取り戻した民に向かって最初に呼びかけられた言葉が、これでした。かつてのエルサレムを知る捕囚当初の悲惨な苦しみを体験した世代は死に絶え、新しい世代によってバビロニアから持ち込まれた偶像崇拝の傾きが再び現れ始めていました。ふんだんに備える献げ物と性風俗の乱れが合体した奇妙な礼拝も行われていたようです。57章にそのことが触れられています。
すでに何度も見てきたとおり、”正義”(「恵みの業」)とは、個人と家族、民族や国家、そこに含まれるさまざまな団体、自然環境などのあらゆる被造物が、本来神から与えられている権利と義務を充分に果たせるような状態を記時期揚げる働きであり、虐げられている人、苦しんでいる人の痛みを共感し、すべての人の間に愛と平和を実現することです。”裁き”(ここでは「正義」と訳されている)とは、正義がおろそかにされて、誰かの権利が奪われたり、義務がなおざりにされて誰かを苦しめたりしている場合に、それを奪われた人の側に立って義務の遂行を求め、権利を取り戻す働きであり、社会に正義と平和、自由と喜びを回復させることです。
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正義と福祉が正しく結び付けられとときに初めて、人々の間に「光」が輝き出し、特性と差別によって受けた「傷」もいやされるのです。私たちの生活の歩みを先導するのは「正義」であり、事に当たって真っ先に正義の実現を追求するなら、「主の栄光があなたのしんがりを守る」と主は保証されます。このような生活姿勢を保つ限り、「あなたが呼べば主は答えてくださる」というのです。預言者は、このあともう一度、正義と福祉の両方を要約して並べ、これを併せて実行するなら、わたしたちの「闇は真昼のように」輝くと保証します。
 主はわたしに油を注ぎ
 主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣(つか)わして
 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み
 捕らわれ人には自由を
 つながれている人には解放を告知させるために。
 主が恵みをお与えになる年
 わたしたちの神が報復される日を告知して
 嘆いている人々を慰め
 シオンのゆえに嘆いている人々に
 灰に代えて冠をかぶらせ
 嘆きに代えて喜びの香油を
 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
 彼らは主が輝きを現すために植えられた
 正義の樫の木と呼ばれる。
 彼らはとこしえの廃虚を建て直し
 古い荒廃の跡を興す。
 廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
                   (61・1-4)
主である神は、救いの歴史にしばしば見られる「油を注ぐ」という使命伝達の象徴をもって、主の僕である神の民にご自分の霊を与えます。与えられる使命は、抑圧された貧しい人々に「良い知らせを伝える」(ビッセール)ことです。それは解放の知らせであり、喜びの福音です。すなわちそれは、自分自身小さく弱い「わたし」が出かけていって、心まで打ち砕かれた人を「包む」ことであり、捕囚の身にある人、足枷をはめられている人には、神がその人に「自由」になる力をすでに与えておられること、自ら身を起こし、立ち上がるなら「解放」されることを告げ知らせることです。またそれは、抑圧されている人には「主が恵みを与え」る”時”が来たこと、弱者を虐げている者には「神が報復する」”時”がすでに来ていることを、生き方、行動をもって宣言することです。これによって、失意の底にある人々の「嘆き」は「喜び」に変わり、「暗い心」は取り払われて「賛美」が溢れ出ます。ここに、神の救いの力、神の創造の力が証されるのです。
実に、ここに挙げられている人々こそ、社会の廃墟を「立て直し」、人間関係の荒廃の跡を「興す」人々であり、社会構造を「新しくする」中心勢力となる人々です。
この人々こそ、社会の真ん中に立つ「正義の樫の木」とよばれるのです。この地上において、貧しく、弱く、小さい、抑圧された者こそ、神の救いの業の真の協力者であるという宣言です。
この預言を、新約のイエス・キリストはご自分に当てはめ、ご自身の宣教姿勢を明らかにされました。ルカによる福音書4・16-21)