じじぃの「科学・芸術_992_脳死・脳死とは何か」

日本の臓器移植 22年の現状と課題

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=w6jFt4sm2Tk

脳死とは (jotnw.or.jp HPより)

脳死の判定基準のまとめ

2015-11-17 みーは血液内科医 (みーの医学)
脳死の判定基準
・深昏睡
 JCS 300 or GCS 3 = 顔面への疼痛刺激で顔をしかめない
・瞳孔散大固定
 両側4mm以上で固定
・脳幹反射の消失
・平坦脳波
 刺激を加えても最低4導出で30分以上平坦
・自発呼吸の消失
https://medi.atsuhiro-me.net/entry/2015/11/17/153525

脳死

立花隆/著 中公文庫 1988年発行

脳死とは何か より

普通、人が死ぬときには、心臓死が先にきて、その結果として脳死が発生する。しかし、きわめてまれなケースとして、脳死が先に起り、心臓死が後から起こることがある。この場合の、脳死発生後心臓死にいたるまでの脳死状態の継続がいまもっぱら社会で問題にされている脳死なのである。
これまでは心臓死が死の概念であったから、心臓死の前は「生」であり、心臓死の後は「死」であるというように、心臓死を生死を分ける分水嶺としてきた。従って当然、このような脳死状態は、いまのところ、「生」の側に組み入れられている。しかしこれは「死」の側に組み入れるほうが正しいのではないかというのが、いま提起されている問題なのである。
問題とされているのは、脳死から心臓死にいたるまでの比較的短い期間(ほんの数日から、どんなに長くても数週間とされている)を、生と死、どちらの概念にくり入れるかという問題である。これは単なる思弁上の問題ではなく(もちろんきわめて重要な思弁上の問題でもあるが)、きわめてプラクチィカルな意味を含む問題である。なぜなら、生と死、どちらにくり入れるかで、その状態にある人間の肉体が生体か死体か決まるからである。そして、人間の肉体は生体か死体かで全く扱いがちがうのであ。生体をナイフで切りきざめば障害または殺人だが、死体を切りきざんでも、死体損壊にしかならない。生体解剖はいかなる場合も許されないが、死体から心臓を切り出して移植することは許される。病める生体に医療を施すことは当然のことだが、死体に医療を施すことはナンセンスだから中止されてしかるべきである。
脳死状態を生とするか死とするかで、脳死状態の肉体をこれらの問題とのかかわりで、どうあつかうべきかで決まってくるわけである。そして、最も今日的には、心臓移植とのかかわりで脳死状態の患者からの心臓摘出の是非が問題にされるわけである。
    ・
その一方で、医療現場での、なしくずしの脳死の死への編入がどんどん進行している。
先に述べた、脳死者からの腎臓移植はその一例である。あるいは、脳死を家族に告げ、家族の要請によっては、その段階で人工呼吸器を外すことにしている医療機関も少なくないのである。
ここでも、脳死を死と見るか、末期症状と見るかで、その人工呼吸器を外すという行為の意味がちがってくる。
脳死が死であれば、そこにあるのは死体である。死体に人工呼吸器がつけられて、死体の胸を機械の力で強制的に動かしているわけである。それはむしろ死者の尊厳を傷つける行為といえるだろう。死者の肉体をいたずらにもてあそぶのはやめて、死体についている人工呼吸器を外すべきだということになって当然である。この場合は、そこに何の問題もない。
だが、脳死が死でなく、末期症状であるというなら、それは、末期の患者を死なせてやる行為だということになる。その患者は、人工呼吸器を唯一の頼りに、死と最後の闘いを展開している。生命の唯一の頼りのスイッチを切ることは、即座に患者の死につながる。大げさにいえば、それは患者を殺すに等しい行為である。
とはいっても、それがただちに医者の倫理に反する行為であるかといえば、そうともいいきれない。
    ・
末期患者については、医者はいやでも応でも、どこかで治療を身かぎらねばならないのである。そしてそのような末期状態においては、生命維持治療を中止しても、法律上の責任(不作為による殺人ないし同意殺人罪など)を問われることはないというのが、刑法学者の多数派の見解でもある。
実際問題として、脳死と判定された患者については、それを個体死と認定しなくても、積極的な加療を打ち切ることにしている医療施設が多い。