じじぃの「人の死にざま_1670_クリスチャン・バーナード(心臓外科医師)」

【1968年8月8日】 和田・札幌医大教授が日本初の心臓移植 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cy4aHb_64iE
Dr Chris Barnard

クリスチャン・バーナード ウィキペディアWikipedia) より
クリスチャン・バーナード(Christiaan Neethling Barnard, 1922年11月8日 - 2001年9月2日)は、南アフリカ共和国の心臓外科医師。世界初の心臓移植を成功させたことで知られる。
1967年12月3日にケープタウンのグルート・スキュール病院で心臓移植手術を行い成功する。これは交通事故によって脳死状態となった24歳の女性の心臓を55歳の男性ルイス・ワシュカンスキーに移植したものだが、術後18日目に肺炎で死亡。1968年にはフィリップ・ブレイバーグに対して2回目の心臓移植手術を実施し、術後19ヵ月間の生存に成功した。その後1983年に医師を引退するまで49例もの心臓移植手術を実施。引退後は心臓疾患を持つ子供たちに心臓手術などの機会を与える基金を設立し、2001年9月2日に滞在先のキプロスのホテルで心不全により死去。78歳。

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『医療の歴史 穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 スティーブ・パーカー/著、千葉喜久枝/訳 創元社 2016年発行
最初の移植 (一部抜粋しています)
良いニュースが大きな見出しで報じられることは滅多にないが、1967年12月3日、医学の飛躍的進歩――世界初の心臓移植――が世界を魅了した。南アフリカケープタウンにあるグレート・スキュール病院の心臓外科医クリスチャン・バーナードと彼の有能な研究チームが9時間をかけて先駆的な手法を実地し、54歳の男性患者に25歳の女性ドナーの心臓を与えることで彼の命を救った。手術の翌日から、その患者ルイス・ワシュカンスキーの状態についての報告が世界のニュースを独占した。ワシュカンスキーは持ち直したが、免疫系の働きが抑制されていたために肺炎を発症し、18日後に亡くなった。
心臓移植は当時、一般の人々にとっては晴天の霹靂であったが、多くの医療機関はそうした手術を実地する準備ができていた。たとえば、ワシュカンスキーの手術のわずか数日後には合衆国で最初の手術がおこなわれた。しかし、主に拒絶反応関連の問題のために、結果ははかばかしくなく、最初の熱狂はさめた。翌1968年、100例以上の手術が試みられたが、失敗する確率が容認しがたいほど高かった。しかし拒絶反応制御剤が改良されると、ふたたび徐々に移植の数が増えた。今日、大体2時間に1例の割合で、世界のどこかで心臓が移植されている。いくつかの医療機関では、術後3人に2人が10年、3人に1人が20年生存している。
最初のヒトからヒトへの心臓移植が最初の臓器移植だったわけではない。腎臓移植の成功は1954年にさかのぼり、組織移植となるとそれよりも前におこなわれていた。バーナード自身は、心臓移植のちょうど6ヵ月前に実地した南アフリカ最初の腎臓移植を含め、すでに数例の移植手術を執刀していた。こうした経験が、臓器の拒絶時反応への対処の仕方を彼に与え、腎臓を移植された患者のエディス・ブラックは20年以上も生き延びた。自信をつけたバーナードはこう述べた。
「心臓移植の準備はすべて整った。われわれにはチームがあり、どうすればいいかわかっている」。とりわけこの最初の試みはあらゆる角度から厳密に精査されることになるため、心臓を提供するドナーと提供されるレシピエントは完全に適合しなければならなかった。臓器が心臓――生命の象徴――であったことが、生と死の境界線についての新たな医学的、倫理的、社会的問題を投げかけた。
鬱血性心不全にかかったワシュカンスキーがグレート・スキュール病院に到着し、そのすぐ後で交通事故の犠牲者が運ばれた時、バーナードは好機を見た。酒に酔った運転手が引き起こしたその事故では、ドナーの母親が死亡していた。ドナー自身は頭部に重傷を負っていた。現代の基準に照らせば、彼女は脳死状態に分類されるであろうが、当時そのような指針は作り出されていなかった。彼女は他の点では健康で、心臓も脈打っていた。議論の後で家族は、彼女の心臓の提供を持ちかけたバーナードに同意した、カリウムの注射が、まだ良い状態を保っている心臓を停止するという避けられない事態を早めた。手術が始まった。その翌日、世界がこの驚くばかりのニュースを聞いた。