じじぃの「歴史・思想_306_ベラルーシ・ロシア領の飛び地」

ベラルーシを知るための50章』

服部倫卓、越野剛/編著 明石書店 2017年発行

ベラルーシのなかのロシア――地図に残された一粒の滴(しずく)が語る歴史 より

ベラルーシ南東部のゴメリ州のなかに、ロシアの飛び地が存在する。この飛び地は、面積454ヘクタール、行政上はロシア連邦ブリャンスク州に属している。ここでは、ベラルーシに存在するこのロシアの飛び地の歴史を紹介したい。
ソ連時代の1924~25年頃、当時のゴメリ県(現在のゴメリ州の前身)に位置していた森林や草地に囲まれたこの地に、ロシアの村人たちが移住し、全30戸のサニコヴォ村と全37戸のメドヴェジェ村が誕生した。1926年、行政区域の再編により、これら2つの村を含む地域一帯がベラルーシ領に編入だれることになった。しかし、サニコヴォとメドヴェジェの村人たちは、自分たちはロシア語話者のロシア人であるとして、村がベラルーシではなくロシア領に留めることを希望した。そして、この2つの村はロシア領であり続けることが認められ、ソ連邦崩壊後も、そのままロシア領として残り、現在に至っている。当時の村人たちは、その後にこの村が待ち受けている運命については、知る由もなかっただろう。
ロシアと欧州の境界に位置するベラルーシの領土は、第二次世界大戦中、ドイツ軍に占領され、甚大な被害を受けた。ベラルーシ全土で600を超える村々が住民とともに焼き払われ、そのうち180以上の村は、戦後も再生されることなく地図から消えた。
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戦後、サニコヴォ・メドヴェジェの村は再生された。毎年、戦勝記念日になると、メドヴェジェの村には3つの長いベンチが用意された。1つ目のベンチは、戦争を生き延びたパルチザンと他の兵士たちのためであった。残りの2つのベンチは、戦争から戻らなかった人たちのためであり、そこには誰も座らなかった。
戦後に再生したサニコヴォ・メドヴェジェの2つの村は、1986年のチェルノブイリ原発事故によって、2度と人が住むことのできない土地になった。2つの村を含む周辺地域一帯は、高濃度の放射能に汚染され、居住も耕作も禁止された。サニコヴォ・メドヴェジェの一部の村人たちは、事故後しばらくの間、立入禁止となった故郷の村に住み続けてが、やがて誰もいなくなった。
今から90年ほど前に、ベラルーシの地図のなかに一粒の滴のように現れたロシアの村は、それからわずか60年ほどの間に、戦争と原発事故という2つの大惨事に見舞われ、無人の地となった。