マイセン磁器の魅力に迫る
マイセン磁器
マイセン磁器の歴史
ユーロクラシクス
■ヨーロッパ初~錬金術師ベットガーによる磁器の発見
東洋の磁器は白く、薄手で軽く、半透明な釉薬によって仕上げられていました。この頃、陶磁器製作技術をヨーロッパ人は知らなかったため、「磁器に毒入りの食物が入れられると粉々に壊れる」などという迷信まであったといいます。
その後、ヨーロッパ各地でこの磁器の秘密を解明しようと努力がなされた。ようやく成功にいたったのが18世紀、学者エーレンフリート・フォン・シュリンハウスと、錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベットガーと、ザクセンのアウグスト強王によるものでした。当時ザクセンは財政難で、利益の見込める磁器工場の設立が必要であったため、王はこの事業に出資したのでした。
https://www.euroclassics-ginza.com/meissen_history.html
『現代ドイツを知るための67章【第3版】』
浜本隆志、高橋憲/編著 明石書店 2020年発行
マイセン磁器のトリビア――ブランドの裏話 より
本場マイセン磁器の成立の歴史については、よく知られているので簡潔に記す。18世紀のフランスのブルボン王朝、オーストリアのハプスブルク、ドイツのザクセン、プロイセンの各王室が中国磁器に大いなる関心を示した。とくにザクセンのアウグスト強王(1670~1733)は、フランスの宮廷で中国産の景徳鎮をみずから観て、早くから磁器収集に執念を燃やしていた。ヨーロッパの王侯貴族は、磁器購入のために多額の支払いを余儀なくされ、そのために自前で磁器製造に血道を上げるようになっていった。
そこでアウグスト強王は、配下の錬金術師ベットガー(1682~1719)に磁器の製造を促し、マイセンのアルブレヒト城に幽閉して実験をおこなわせた。それは「企業秘密」であり、文字どおり、磁器は金を生み出す打ち出の小槌と考えられていたからである。ベットガーは試行錯誤を重ねながら、磁器の原料の「カオリン」(計算アルミニウムを主成分とし、長石、雲母を含む)が磁器製造の鍵であることに気づいた。かれは「カオリン」をボヘミアのエルツ山地で入手し、1300度以上の高温で焼成し、1709年にヨーロッパ初のマイセン磁器を誕生させる。
強王は翌年の1710年にマイセンのアルブレヒト城に窯を設営し、本格的に硬質磁器製造に乗り出す。マイセン焼きの成功はザクセン王国の興隆をもたらすが、その技術の独占は長く続かない。マイセン磁器の製法に大いなる関心をもった近隣の国王が、職人の引抜きや強制的な拉致すらおこなったからである。
ではマイセン磁器をめぐるトリビアについて、以下の6点にまとめておこう。
1 初期のマイセン磁器の文様は、ハス、マツ、ザクロ、桃、芙蓉、孔雀など中国のデザインが摸倣された。そのアジアのザクロや桃を模写する際に、適当な手本がなく、これらを身近なタマネギに見立てた。その結果、マイセン磁器独自のブルーオニオンが成立した。最初に描かれたのは1739年であり、人気が出て大量生産されるのは1845年以降である。2 マイセン磁器のトレードマークは交差剣であるが、これはアウグスト強王の紋章デザインから採られた。ただし歴代同一でなく、時代によって微妙にへんかしている。交差剣のマークによって製造年を推定できるので、アンティークの磁器の鑑定に用いられる。
3 ヨーロッパ王室で磁器がもてはやされた理由は、磁器は毒を盛られると色が変わるという風説があったからだ。とくに王侯貴族は、暗殺を恐れ、毒に対する警戒心が高かったと見られ、招待された場合、毒味役を同行させたこともある。磁器だけでなく、宝石のルビーが曇れば毒が盛られているとか、銀食器が曇れば毒が入っているとか、ダイヤモンドの粉末が毒消しに効果があるという噂が広まっていた。
4 「白い金」といわれた白磁のマイセンは、ローソクの灯りを反射するため、料理を豪華に見せる効果を発揮したので、王侯に好まれた。ヨーロッパでは光沢があり、金彩をほどこした時期が愛でられるゆえんである。17~18世紀にも専制君主は晩餐会をよく開いたが、ここではとくに王侯の権威や財力を誇示するために、景徳鎮、マイセン磁器が重要な役割を果たした。それはステータス・シンボルであったからである。
5 マイセン磁器は莫大な富をもたらすので、製法をめぐって産業スパイが暗躍した。秘密にされた製法はすぐに漏洩し、各地でマイセン磁器が製造されるようになる。たとえばウィーン(1716)、ベェネツィア(1717)、フィレンツェ(1737)、コペンハーゲン(1737)、ペテルスブルグ(1743)でも、同様な磁器がつくられた。
6 1608年からオランダ東インド会社は、本格的に中国の景徳鎮磁器の貿易をおこなった。ところが、明朝から清朝への王朝交代(1644年に明の滅亡)が起こり、この政変のため、景徳鎮の製造が中断される。景徳鎮の衰退によって、着目されたのが日本の伊万里であった。オランダ東インド会社は、1650年代の終わりごろ、取引先を景徳鎮から伊万里に替えた。とくにヨーロッパでは金彩をほどこした日本風色絵、柿右衛門の赤絵が人気を博した。これは当時のバロック・ロココ時代のヨーロッパの芸術風潮と合致したからである。このような歴史的経緯により、マイセンと伊万里焼を扱った有田市は後二姉妹都市となった。