じじぃの「歴史・思想_283_ハラリ・21 Lessons・瞑想」

DEEP RELAXATION: Guided 10 Minute Visualisation Meditation

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GZiXPBGxKSE

Gautam Buddha

Gautam Buddha gave his first sermon on Guru Purnima: A look at some of his teachings and quotes

Jul 04, 2020 Budhdha and Guru Purnima 2020
●Teachings from Gautam Buddha's first sermon
Dharmachakrapravartana Sutta also referred to as the wheel of Dharma consists of the following:
Four Noble truths - Dukkha (sufferings), Tanha (desire), Nirodha (renouncement) and Magga (the path to enlightenment)
https://www.timesnownews.com/spiritual/religion/article/gautam-buddha-gave-his-first-sermon-on-guru-purnima-a-look-at-some-of-his-teachings-and-quotes/616209

『21 Lessons』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著 柴田裕之/訳 2019年発行

21 瞑想――ひたすら観察せよ より

大学で学び始めたとき、そこは答えを見つけるのに理想的な場所だと思った。だが、がっかりだった。学究の世界は、人間がこれまでに創り上げた神話をすべて解体するための強力な道具は提供してくれたが、人生にまつわる大きな疑問に対する、満足のいく答えは与えてくれなかった。それどころか、しだいに狭く限られた範囲の疑問に焦点を絞ることを私に促した。とうとう気がついたら、私はオックスフォード大学で中世の兵士たちが記した自伝的文書について博士論文を書いていた。趣味で哲学書をたくさん読んだり、哲学的な議論をたっぷりしたりし続けたが、果てしない知的娯楽にこそなったものの、本当の見識はほとんど得られなかった。なんとも苛立たしい日々だった。
やがて親友のロンに、少なくとも数日間は読書や知的議論はすべてやめ、試しにヴィパッサナー瞑想の講座を受けてみるべきだと言われた。(「ヴィパッサナー」とは。古代インドのパーリ語で「物事をありのままに観察する」の意)。私は、これはニューエイジのわけのわからない活動だと思い、もうこれ以上新しい神話について聞かされるのはご免だったから断った。だが1年間やんわりと促され続けた後、ついに2000年4月、10日間のヴィパッサナー講習に行くことになった。
それまでは、瞑想についてはほとんど何も知らなかったので、ありとあらゆる種類の込み入った神秘的な理論を伴うものだとばかり思っていた。したがって、瞑想の教えがどれほど実践的なものかを知って仰天した。講習の指導者S・N・ゴエンカは受講生に、足を組んで目を閉じて座らせ、鼻から出たり入ったりする息に注意をすべて向けるように指示した。「何もしてはけません」と彼は言い続けた。「息をコントロールしようとしたり、特別な息の仕方をしようとしたりしないでください。それが何であれ、この瞬間の現実をひたすら観察するのです。息が入ってくるときは、今、息が入ってきていると自覚するだけでいいのです。息が出ていくときには、今、息が出ていっているとだけ自覚します。そして、注意が散漫になり、心が記憶や空想の中を漂い始めたら、今、自分の心が息から離れてしまったことを、ただ自覚してください」。これほど重要なことを教わったのは初めてだった。
人は人生についての大きな疑問を投げかけるときには普通、いつ自分の鼻から息を入ってきて、いつ出ていっているかになど、まったく関心がない。そんなことではなく、死んだらどうなるかといったことを知りたがる。とはいえ、人生の本当の謎は、死んだ後に何か起こるかではなく、死ぬ前に何が起こるかだ。もし死を理解したければ、生を理解する必要がある。
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顕微鏡の焦点がぼけたときには、小さなハンドルを回しさえすればいい。もしハンドルが壊れたら、専門の技術者を読んで直してもらえる。だが心の焦点がぼけたときには、そう簡単には直せない。心が自らを組織立てて客観的に観察し始められるように、心を落ち着けて集中させるには、たちてい長い修練が必要となる。将来は、薬を飲めばたちまち集中できるようになるかもしれない。とはいえ、瞑想はたんに集中するだけではなく心を探究することを目指しているので、そのような近道を通ったら、逆効果になりかねない。薬を飲めばとても鋭敏で集中した状態になれるかもしれないが、同時に、心のスペクトル全体を探究する妨げにもなるかもしれない。なにしろ、今日でさえ、よくできたスリラー映画をテレビで観ていれば簡単に心を集中させられるが、心はその映画にあまりに集中してしまい、自分のダイナミクスを観察できない。
それでも、たとえそのような薬の類に頼ることができなかったところで、諦めるべきではない。人類学者や動物学者や宇宙飛行士に奮い立たせてもらうことができる。人類学者や動物学者は、これでもかと言うほどの病気や危険にさらされながら、遠方の島々で何年も過ごす。宇宙飛行士は長年、困難な訓練に没頭し、宇宙への冒険旅行に備える。外国の文化や未知の種や彼方の惑星を理解するために、私たちがこれほどの努力を惜しまないのなら、自分自身の心を理解するためにも同じぐらい一生懸命取り組む勝ちはあるかもしれない。そして、アルゴリズムが私たちに代わって私たちの心を決めるようになる前に、自分の心を理解しておかなくてはいけない。
自己観察は昔から難しかったが、時間とともにさらに難しくなっているかもしれない。歴史が展開するにつれ、人間は自分自身についてますます複雑な物語を創り出し、そのせいで、私たちが本当は何者かを知るのもますます困難になった。これらの物語は、大勢の人間を統一し、力を蓄積し、社会の調和を維持することを目的としていた。それらは、何十億もの飢えた人々に食べ物を与え、彼らが激しく争ったりしないようにするために、不可欠だった。人々が自分を観察しようとしたときにたいてい見つけたのは、こうした既成の物語だった。制約のない探究はあまりに危険だった。社会秩序を損ないかねなかったからだ。
テクノロジーが進歩するうちに、2つのことが起った。第1に、燧石(すいせき)で作ったナイフが徐々に核ミサイルに進化すると、社会秩序を乱すのは、前より危険になった。第2に、洞窟壁画が長い時間が長い時間をかけてテレビ放送に進化すると、人々を騙すのが前より簡単になった。近い将来、アルゴリズムはこの過程の仕上げをし、人々が自分自身についての現実を観察するのをほぼ不可能にするかもしれない。そのときには、私たちが何者で、自分自身について何を知るべきかは、私たちに代わってアルゴリズムが決めることになるだろう。
あと数年あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている。努力をすれば、私たちは自分が何者なのかを、依然としてじっくり吟味することができる。だが、この機会を活用したければ、今すぐそうするしかないのだ。