EASTERN PHILOSOPHY - The Buddha
Buddha Universe
『21 Lessons』
ユヴァル・ノア・ハラリ/著 柴田裕之/訳 2019年発行
20 意味――人生は物語ではない より
私は何者か? 人生で何をするべきか? 人間は太古からこうした問いを投げかけ続けてきた。どの世代も新しい答えを必要とする。なぜなら、何を知っていて何を知らないかは、変わり続けるからだ。科学や、神、政治、宗教について、私たちが知っていることと知らないことのいっさいを考えると、今日、私たちが出すことのできる最善の答えは何か?
人々はどんな種類の答えを期待しているのだろう? 人生の意味について問うときにはほぼ例外なく、人は物語を語ってもらうことを期待している。ホモ・サスペンスは物を語る動物であり、数やグラフではなく物語で考えるし、この世界そのものも、ヒーローと悪漢、争いと和解、クライマックスとハッピーエンドが揃った物語のように展開すると信じている。私たちは人生の意味を探し求めるときには、現実とはいったいどういうものかや、宇宙のドグマの中で自分がどんな役割を果たすのかを説明してくれる物語を欲しがる。その役割のおかげで、私は何か自分よ売りも大きいものの一部となり、自分の経験や選択のいっさいに意味が与えられる。
無数の不安な人間たちに何千年年にもわたって語られてきた。人気抜群の物語がある。それによると、私たちはみな、生きとし生けるものを網羅して結びつける永遠のサイクルの一部だという。どの生き物にも、このサイクルの中で果たすべき特有の機能ふがある。人生の意味を理解するとは、自分ならではの機能を理解することであり、良い人生を送るとは、その機能を果たすことだ。
ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」は、血で血を洗う内戦のさなかに、偉大な戦士で王子のアルジェナが疑念に駆られる様子を語る。友人や親族が敵陣にいるのを目にした王子は、戦って彼らを殺すのをためらう。彼は何が善で何が悪か、誰がそれを決めたのか、人間の命の目的は何かを問い始める。すると、神の化身クリシュナはアルジェナに、次のように説明する。壮大な宇宙のサイクルの中で、それぞれの生き物は独自の「ダルマ」、すなわち、たどらなければならない道と果たさなければならない義務を持っている。どれほどそれが困難な道のりであろうと、もし自分のダルマを実現すれば、心の平穏とあらゆる疑うからの解放を享受する。もしダルマに従うことを拒み、誰か別の者を選ぼうとすれば、あるいは、どんな道も選ばずにさまよえば、宇宙の均衡を乱し、平穏も喜びもけっして見出せない。自分の道をたどりさえすれば、をそれがどのような道かは関係ない。洗濯女の道を熱心にたどる洗濯女は、王子の道から逸れる王子よりもはるかに優れている、と。
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ブッダの教えによると、宇宙の3つの基本的な現実は、万物は絶えず変化していること、永続する本質を持つものは何1つないこと、完全に満足できるものはないことだという。銀河の彼方まで、あるいは体や心の隅々まで調べたとしても、けっして変わらないものや、永遠の本質を持つ者、完全な満足をもたらしてくれるものには、絶対に出合えない。
苦しみが現われるのは、私たちがこれを正しく認識しそこなっているからだ。人は、どこかに永遠の本質があり、それを見つけてそれとつながれさえすれば、完全に満足できると信じている。この永遠の本質は、神と呼ばれることもあれば、国家と呼ばれることもある、魂、正真正銘の自己、真の愛と呼ばれることもある。そして、人はそれに執着すればするほど、失望し、惨めになる。それを見つけられないからだ。執着が大きいほど、自分と大切な目標との間に立ちはだかっているように見える人や集団や機関に対して、大きな憎しみを募らせるから、なお悪い。
というわけで、ブッダによれば、人生には何の意味もなく、人々はどんな意味も生み出す必要はないという。私たちは、意味などないことに気づき、それによって空虚な現象への執着や同一化が引き起こす苦しみから解放されるだけでいい。