じじぃの「歴史・思想_265_ハラリ・21 Lessons・自由」

WHAT IS A GOOD SAMARITAN LAW?

GOOD SAMARITAN LAWS

February 9, 2017 Free Omid
●WHAT IS A GOOD SAMARITAN LAW?
These laws are named after the parable in the bible found in Luke 10:25-37 where a stranger aiding another traveler was lauded for his actions. In general, Good Samaritan laws are intended to give protection from prosecution to someone helping a stranger.
http://freeomid.org/good-samaritan-laws/

『21 Lessons』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著 柴田裕之/訳 2019年発行

3 自由――ビッグデータがあなたを見守っている より

自由主義の物語は、人間の自由を最も価値のあるものとして大切にする。あらゆる権限は最終的には個々の人間の自由意志から生じ、自由意志は各自の感情や欲望や選択の中に表われると、この物語は主張する。政治では、有権者がいちばんよく知っていると自由主義は信じている。だから民主的な占拠を支持する。経済では、顧客はつねに正しいと自由主義は断言する。だから自由主義の原理を歓迎する。私事では、他者の自由を侵害しないかぎり、自分に耳を傾けたり、自分に忠実であったり、自分の心に従ったりすることを、自由主義は人々に勧める。この個人の自由は、人権の中に大切に謳われている。
今は、西洋の政治的な談話では、「自由主義の(リベラル)という言葉は、同性愛や銃規制や妊娠中絶などの特定の目的を支持する人を指して、非常に狭い、党派色の濃い意味で使われることがある。とはいえ、いわゆる保守派の大半も、広い意味での自由主義の世界観を信奉している。とくにアメリカでは、共和党員も民主党員も激烈な口論をときおりやめにして、自由選挙や独立した司法制度や人権のような根本原則には誰もが同意することを思い出すべきだ。
あなたも自問してみるといい。人々はやみくもに王に従うのではなく、自ら政権を選ぶべきだと思うか? 生まれでカーストが決まるのではなく、自ら職業を選ぶべきか? 誰であろうと親が選んだ相手と結婚するのではなく、自ら配偶者を選ぶべきか? もしこの3つのすべて「イエス」と答えたのなら、おめでとう。あなたは自由主義者だ。
とりわけ、次の点はどうしても心に留めておくべきだ。ロナルド・レーガンマーガレット・サッチャーのような保守派のヒーローでさえも、経済的自由ばかりでなく個人の自由も熱烈に擁護した。サッチャーは1987年の有名なインタビューで、こう述べている。「社会などというものはありません。人々から成る生きたタペストリーがあり……私たちの生活の質は、一人ひとりが自らに責任を持つ覚悟がどれだけあるかにかかっています」
保守党のサッチャーの後継者たちは、政治的権限は個々の有権者の感情や選択や自由意志に由来するということで、労働党と全面的に同意している。
    ・
社会学史上でも意地の悪いことでは指折りの実験が1970年12月に、プリンストン神学校の学生の一部を対象に行われた。この学生たちは、長老派教会で牧師になることを目指して学んでいた。学生たちはそれぞれ、少し離れた所にある講堂に急いで行き、善きサマリア人の寓話について演説するように指示された。それは次のような寓話だ。古代エルサレムからエリコへと向かっていたユダヤ人の旅人が追剥(おいはぎ)に襲われて打ちのめされ、瀕死の状態で道端に置き去りにされた。しばらくして祭司が、続いてレビ人が通りかかったが、どちらもそのまま行ったしまった[訳註 当時、レビ人は神殿で働く祭司を助けていた]。それに対して、サマリア人ユダヤ人にひどく蔑(さげす)まれている宗派の人)は、災難に見舞われた人を目にすると立ち止まり、介抱してい餅を救う。人の価値は信仰している宗教ではなく、実際の行動によって判断するべきだ、というのがこの寓話の教訓だ。
さて、若い熱心な神学生たちは、善きサマリア人の寓話の教訓をどう説明するのがいちばんいいか一生懸命考えながら講堂へと急いだ。だが実験者たちは、途中でみすぼらしい身なりの人を待たせておいた。その人はうなだれ、目を閉じ、戸口にぐったりと腰を下ろしていた。この場面が仕組まれていたことを知らない神学生が急ぎ足で通りかかると、「災難に見舞われた人」は咳き込み、痛ましい呻(うめ)き声を上げた。ところが、ほとんどの神学生は、救いの手を差し伸べるどころか、立ち止まって、どうしましたか、と声をかけることさえしなかった。講堂へ急ぐ必要から生み出された情動的ストレスが、苦しんでいる見知らぬ人を助ける道徳的義務を打ち負かしてしまったのだ。
他の無数の状況でも人間の情動は哲学理論を打ち負かす。そのため、倫理と哲学の世界史は、りっぱな理想と理想には程遠い行動から成る、ひどく気の滅入る物語となっている。本当にもう一方の頬を差し出すキリスト教徒がどれほどいるだろうか? 本当に我執を乗り越える仏教徒がどれほどいるのだろうか? 本当に隣人を自らのように愛しているユダヤ教徒がどれほどいるのだろうか? ほとんどいない。
    ・
私たちは今、膨大な量のデータを生み出し、巨大なデータを処理メカニズムの中の非常に効率的なチップとして機能する、従順な人間を創り出そうしているが、この、いわば「データ雌牛」が人間の潜在能力を最大限に発揮することはおよそありえない。じつのところ、人間の潜在能力の全貌は、私たちには想像すらできない。なぜなら、人間の心についてはほとんどわかっていないからだ。それにもかかわらず、私たちは人間の心の探求にはろくに投資しておらず、インターネット接続の速度とビッグデータアルゴリズムの効率を上げることに専心している。気をつけないと、ダウングレードされた人間がアップグレードされたコンピューターを誤用して、自らとこの世界に大惨事をもたらすことになる。
私たちを待ち受けている危険は、デジタル独裁国家だけではない。自由主義の秩序は、自由と並んで平等の価値をおおいに重視する。自由主義は政治的平等をいつも大切にしてきたし、経済的平等もそれに劣らず重要であることに少しずつ気づいてきた。なぜなら、社会的セーフティーネットと多少の経済的平等がなければ、自由主義は意味がないからだ。

だがビッグデータアルゴリズムは、自由を消し去りかねないばかりか、同時に、かつてないほど不平等な社会が生み出しかねない。あらゆる富と権力が、ほんの一握りのエリートの手に集中する一方で、ほとんどの人が搾取ではなく、それよりもはるかに悪いもの、すなわち存在意義の喪失に苦しむことになるかもしれない。