じじぃの「歴史・思想_263_ハラリ・21 Lessons・幻滅」

About the Freedom House Mission: Democracy in Crisis

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rjvn-qKJAaA

Crisis of liberal democracy


『21 Lessons』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著 柴田裕之/訳 2019年発行

1 幻滅――先送りにされた「歴史の終わり」 より

人間は、事実や数値や方程式ではなく物語の形で物事を考える。そして、その物語は単純であればあるほど良い。どんな人も集団も国家も、独自の物語や神話を持っている。だが20世紀には、ニューヨーク、ベルリン、モスクワのグローバルなエリート層が、過去をそっくり説明するとともに全世界の将来を予測するという触れ込みの、3つの壮大な物語を考え出した。ファシズムの物語と、共産主義の物語と、自由主義の物語だ。
ファシズムの物語は、異なる国家間の闘争として歴史を説明し、他のあらゆる人間の集団を力ずくで征服する1つの集団によって支配される世界を思い描いた。共産主義の物語は、異なる階級間の闘争として歴史を説明し、たとえ自由を犠牲にしても平等を確保する、中央集権化された社会制度によって、あらゆる集団が統一される世界を思い描いた。自由主義の物語は、自由と圧政との闘争として歴史を説明し、あらゆる人が平和的に協力し、たとえ平等はある程度犠牲にしても中央の統制を最小限にとどめる世界を思い描いた。
これら3つの物語の間の争いは、第二次世界大戦で最初の山場を迎え、この戦争によってファシズム」が打ち負かされた。1940年代後期から80年代後期にかけて、世界は共産主義自由主義という、残る2つの物語の間の戦場と化した。やがて共産主義の物語が破綻し、自由主義の物語が、人間の過去への主要なガイド兼、世界の将来への不可欠の手引きとして後に残された――いや、グローバルなエリート層にはそう思えた。
自由主義の物語は自由の価値と力を賛美し、次のように語る。人類は何千年にもわたって暴虐な政治体制の下で暮らしてきた。そうした体制は、政治的な権利や経済的な機会や個人の自由を人々にはほとんど認めず、個人やアイデアや財の移動を厳しく制限した。だが人々は自由のために戦い、自由は着実に地歩を固めていった。民主的な政治体制が独裁政権を押しのけた。自由企業制が経済的制約に打ち勝った。人々は、偏狭な聖職者や旧弊な伝統にやみくもに従う代わりに、自分で考え、自らの心に従うことを学んだ。公道や頑丈な橋や活気に満ちた空港が、壁や堀や有刺鉄線のついた柵に取って代わった。
自由主義の物語は、世の中では万事が順調であるわけではないことや、まだ乗り越えなければならない障害が多々あることを認める。
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自由主義のパッケージは多くの短所を抱えているとはいえ、他のどんな袁卓志と比べても、はるかに優れた実績を持っていると、オバマはいみじくも指摘した。ほとんどの人間は、21世紀初頭における自由主義秩序の庇護の下で教授したほどの平和と繁栄は、かつて経験したことがない。史上初めて、感染症で亡くなる人の数が老衰で亡くなる人の数を下回り、基金で命を落とす人の数が肥満で命を落とす人の数を下回り、暴力のせいでこの世を去る人の数が、事故でこの世を去る人の数を下回っている。
だが自由主義は、私たちが直面する最大の問題である生態系の崩壊と技術的破壊に対して、何ら明確な答えを持っていない。自由主義は伝統的異経済成長に頼ることで、難しい社会的争いを魔法のように解決してきた。自由主義は、より大きなパイの取り分を全員に約束して、無産階級(プロレタリアート)を有産階級(ブルジョアジー)と、信心深い人を無神論者と、地元民を移住者と、ヨーロッパ人をアジア人と和解させた・パイがつねに大きくなっていれば、それも可能だった。ところが、経済成長はグローバルな生態系を救う事はない。むしろその正反対で、生態系の危機の原因なのだ。そして、経済成長は技術的破壊を解消することもない。破壊的技術をますます多く発明することの上に成り立っているからだ。
自由主義の物語と自由市場資本主義の論理は、人々に壮大な期待を抱くように促す。20世紀後半には、ヒューストンであろうと、上海であろうと、イスタンブールであろうと、サンパウロであろうと、どの世代も前の世代よりも良い教育を受け、優れた医療の恩恵に浴し、多くの収入を得た。ところが今後の年月には、技術的破壊と生態系の崩壊の組み合わせを考えると、古い世代は良くても現状維持が精一杯かもしれない。
したがって私たちは、この世界のためのためにアップデート版の物語を創り出す任務を担わされた。産業革命の大変動が20世紀の新しいイデオロギーの誕生につながったのとちょうど同じで、来たるべきバイオテクノロジーとITの革命も斬新なバージョンを必要としそうだ。だから今後の数十年間は、真剣に内省を行ない、新しい社会モデルや政治モデルを考案する時代になるかもしれない。
自由主義は、1930年代と60年代の危機の後にしたように、またしても自らを作り直し、かつてないほど魅力的になって蘇ることができるだろうか? 伝統的な宗教やナショナリズムは、自由主義者が思いつかないような答えを提供しうるだろうか? そして、古来の叡智を活かして、現代にふさわしい世界観を作り上げることができるだろうか? それともひょっとしたら、過去とさっぱり訣別し、古い神々や国家ばかりか、自由と平等という現代の革新的な価値観さえも超越する、完全に新しい物語を生み出す時が来たのだろうか?

現時点では、人類はこうした疑問に関して合意に達するには程遠い。人々が古い物語への信頼を失ったものの、新しい物語はまだ採用していない、幻滅と怒りに満ちた虚無的な時期に、私たちは依然としてある。では、次にどうすればいいのか?

最初のステップは、破滅の予言を抑え込み、パニックモードから当惑へと切り替えることだろう。パニックは傲慢の一形態だ。それは、私はいったい世界がどこへ向かっているか承知している。(下へと向かっているのだ)という。うぬぼれた感覚に由来する。当惑はもっと謙虚で、したがって、もっと先見の明がある。「この世の終りがやって来る!」と叫びながら通りを駆けていきたくなったら、こう自分に言い聞かせてみてほしい。「いや、そうではない。本当は、この世の中で何が起こっているのか、どうしても理解できないのだ」と。