じじぃの「歴史・思想_248_レイシズム・ダーウインの功績」

UNITY: Anti-discrimination Video

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XWgE6D7ejtg

racial discrimination

まえがき より

現代では、人種をめぐる個々の課題への発言と、レイシズムの粗雑な言説が区別されないで一緒くたにされている。そのような現状を変えるために、わたしはこの本を書いた。右に挙げた2つを、まったく異質なものとしてはっきりと区別するために。人種についての科学的知見とレイシズムの罵詈雑言はまったくの別物である。異なる歴史があって、それを行う人々も、参照しているデータも違っている。
本書の第1部には、人種(race)に関して科学がこれまで明らかにしたことを記した。第2部ではレイシズム(racism)の歴史を概説した。そして最後の第8章は、レイシズムという社会問題に対する私なりの回答である。すなわち「レイシズムがどうして現代には蔓延しているのか?」そして「この伝染病に終止符を打つにはどうしたらいいのか?」という2つの問いに対して、一人の人類学者として答えらしいものを提示しようと思う。
私がこの本を書いた動機は、いわば重ね折りになっていた。アメリカ革命の末裔として、レイシズムの喧伝するものに反対していると明らかにしたかったし、そして同時に、文化人類学者の一員として、レイシズムの掲げている似非(えせ)人類学に反論する必要があったのだ。

人類は自らを分類する より

ダーウインの功績

人種を分類することに関して、これまで相当な努力が傾けられてきたことは確かだ。植物学や動物学についても、ビュフォンによる18世紀の粗雑な分類法から始まって、徐々に現代の洗練された体系へと進んできた。今では、分類のうちに種同士の遺伝的関連性や進化史を見てとることさえ可能になっている。
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19世紀後半になってチャールズ・ダーウインの進化論が受け入れられるまで、人類学的な議論の中心は、単一起源説と複数起源説のどちらが正しいかを決めることであった。聖書に書かれていることや教会の宣伝するところによれば、すべて人類はアダム1人から生まれたものである。コロンブス以前のヨーロッパではこの伝統的な単一起源説が広く信仰されていた。
しかし大航海時代になってヨーロッパ人の視野が広がると、黄色い人間、黒い人間、赤い人間を見て、果たしてただの一度の<神の創造>でこのようなことを起きるだろうかと疑問が出るようになった(なお、この時点では例えば黄色人種の内部にどれだけ多様性があるかは考慮されていない。混交の可能性についても検討されなかった。人種は、まるで子ども向けの地理の教科書のように、国ごとに色分けされているものと考えられていた)。単一起源論者は天候の違いなどによって人種が分かれたのだろうと考えた。1748年に『法の精神』を著したモンテスキューもそのうちの一人だ。反対に複数起源論者にとっては、それぞれの変種は「神の思惟」の結果であって、互いに無関係であるとされていた。
単一起源論者のキュヴィエは、聖書の通りあらゆる人種はハムとセムヤペテから分かれたもので、すなわちその父親であるノア1人に起源をもつものと考えていた。1830年、フランス学士院を舞台に複数起源論者サンティレールがキュヴィエに議論を仕掛けた。これを伝え聞いてゲーテは、驚きを隠さず友人に伝えている。
「君は、この大事件についてどう思うかい? 火山は爆発した。すべては火中にある。もはや非公開で談判するようなときではないよ!」
ダーウイン以前にも一部の優秀な学者は、それぞれの人種は互いに全く別物であるという考えを受け入れず、反証の試みを続けていた。史上初めての偉大な人類学者と言うべきテオドール・ヴァイツは、膨大な身体計画の結果から人種が互いに独立であるという意見を否定した。
活版印刷の鉛版(ステロタイプ)のように人種を捉えるのでは整合性が取れないことを発見したのだ。例えば「黄色い人々」の中にもかなりの振れ幅があって、黄色人種内の他のグループよりもむしろヨーロッパ人とずっと多くの共通点を持っているグループもあるという観測データが主張の根拠となった。同じ時代に生きていたものの、ヴァイツがダーウイン理論に触れた形跡はないから、上に挙げた主張はダーウインの進化論とは独立に現れたものと考えるのがよさそうだ。
さて、しかしどれだけ贔屓目に見てもやはり、私たちの理解をずっと前進させたのはダーウインの功績とするべきだろう。

「純粋な人種」という幻想

計測対象がスウェーデン人であろうとアルジェリア人だろうと中国人だろうとギリシャ人だろうと同じである。どんなデータを集めてみても、これまでに大規模な人種の混交が繰り返されてきたことが明らかになるだけであって、「純粋の一系」などというものが幻想であると突きつけられておしまいである。例えばスウェーデン人とシシリア人を比べても、どちらか一方にしか存在しない形質などというものではなくて、ただその統計的な分布が異なるだけだ。鳥類の新種でも見つけるようなつもりで調査に出かけても、ハトとスズメほどの違いを示すものは人類にはないと改めて思い知らされて帰途に就くことだろう。
私たちはもうそろそろ、鳥や犬の新種でも探すようにヒトの身体的特徴を云々するのをやめなければならない。言えるのはせいぜい「世界中の色々な地域で人類は解剖学的な様々な特徴を発達させてきて、ごくおおまかにコーカソイドモンゴロイドネグロイドと言えそうだ」くらいのところである。局地的にもっと細かい特性が長じたこともあったにせよ、いずれも特別に重要なものとはならなかった。
日本の先住民族であるアイヌにみられるコーカソイド的特徴を説明するため、ボアズはコーカソイドモンゴロイドの一部として、主要なエスニック・グループを2つに減らすべきだとさえ考えた。これまでアイヌを研究してきた学者は皆が口をそろえてアイヌといわゆる「白人」が似ていることを書き残している。皮膚の色だけでなく、多毛であることやその髪色や髪質もコーカソイドに近い。アイヌはその周囲をモンゴロイドに囲まれているにもかかわらずこのような特質を持っているので、白人がその1ヵ所にだけ飛び地的に居住してきたと無理矢理に仮定するよりも、モンゴロイドの亜型としてコーカソイドが生じると考える力が自然である。
いずれの解剖学的特徴も、歴史学がやっと追えるくらいの大昔に現れたものだ。その一方で文明が高度に発達するようになったのはごく最近である。文明は世界各地で同時多発的に起きたのであって、どれか1つの人種にその功績があるのではない。大掴みな3部類であろうと、あるいはもっと細かい小分類の意味で使おうと、文明はどうやっても「人種」が作り出したものではない。世界各地の身体的特徴の現在の分布は、旧石器時代から繰り返されてきた民族の移動に原因がある。人々が大陸を横断し、海を渡り、そして通婚しながら混じり合っていくプロセスについては次章で取りあげるけれども、いずれにせよ西ヨーロッパのどこかに「純粋な人種」の中心地があるなどと主張するのは端的に誤りである。