じじぃの「科学・芸術_563_長江文明・縄文文明」

日本人 謎のルーツ1 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HZW90htwbGw

『新・進化論が変わる』佐川峻/中原英臣/著 ブルーバックス 2008年発行
ゲノムで明らかになった日本人の起源 より
人類は大きく分けて、白人やインド系のコーカソイド、黒人系のネグロイド、そして黄色人種系のモンゴロイドがあり、日本人はモンゴロイドである。
最初に日本列島で暮らし始めたのが縄文人であるのは間違いない。その後、弥生人が渡来し、基からいた縄文人に代わって日本列島の主になった。
そこで、その縄文人が南方からきた古モンゴロイドだったのか、それとも北方からきた新モンゴロイドだったのかという疑問が生じる。つい最近まで、日本人の起源に関する科学的な証拠は主に化石で、これに言語や文化を比較する間接的な証拠によって論争されてきた。
ところが近年、分子生物学が進歩した結果、ルーツ探しの主な道具は、化石に代わって遺伝子になり、この論争にも最終的な答えが出されようとしている。そのいくつかを紹介しよう。
B型肝炎ウイルスを体内にもっている人(キャリア)の分布でも興味深い事実がみつかっている。
B型肝炎ウイルスの遺伝子型は8タイプ知られている。西日本から中部地方では、中国の北部や韓国に多いタイプが圧倒的に多い。それに対して沖縄、奄美大島、東北、北海道には台湾、インドネシアに多いBタイプが多数を占める。
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B型肝炎ウイルスのタイプの分布を調べた西岡久壽弥は、日本人の祖先となった縄文人は、沖縄を経由して日本列島にやってきたBタイプの肝炎ウイルスをもった南方系の人たちで、その後、Cタイプをもった弥生人朝鮮半島を経由して日本列島にやってきて勢力を拡大していったと考えている。

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『見る読書』 榊原英資/著 ベスト新書 2018年発行
長江文明も縄文文明も、牧畜と接点のない「稲作漁撈文明」 より
日本は明らかに「海の国」ですが、同時に「森の国」でもあります。
そのことを、「稲作漁撈文明」という言葉を使って改めて思い出させてくれるのが、安田喜憲の『稲作漁撈文明―長江文明から弥生文化へ』(2009年)という本。
安田喜憲は、文明や歴史を自然環境との関係から考える「環境考古学」を提唱する地理学者です。
彼はユーラシア大陸の文明を「稲作漁撈文明」「畑作牧畜文明」「遊牧文明」の3つに分類します。農業に注目すればユーラシア大陸でおこなわれたのは稲作か畑作は、2つに1つ。いわゆる四大文明はいずれも畑作文明で牧畜や遊牧と密接に関係していました。
安田喜憲は、四大文明に代表される「家畜の民、牧畜民や遊牧民との文明接触の下に発展下」文明を「動物文明」と呼びます。
ギリシャ・ローマ文明、近代ヨーロッパ文明、さらにはアメリカ文明など、そのときどきの世界で先進的と見なされ、私たちが「文明」と呼んできたものは、ほとんど「動物文明」に含まれてしまいます。
これに対して牧畜民や遊牧民との接触を受けなかった場所では、まったく異質な文明が育っていったと安田は主張し、これを「植物文明」と呼びます。
具体的には長江文明、縄文文明、マヤ文明アンデス文明などでこれらの文明はコメ、トウモロコシ、ジャガイモなどを栽培し主なタンパク源を魚に求めました。
そして、大航海時代以降の世界は「動物文明」が中心となって、「植物文明」を片隅に追いやってしまった。稲作漁撈文明が畑作牧畜文明に、コメ文化が小麦文化に、それぞれ圧倒されてしまったのが近代だった、というわけです。
安田によれば、中国の長江文明(長江は揚子江と同じ。下流のほうを揚子江と呼ぶ)では、1万2000〜1万4000年前から稲作が始まっていました。6000年前には、都市文明の段階に達し、水と森の循環社会が形成されていました。
この長江文明を担った民族は漢民族ではなく、やがて北西からやってきた畑作牧畜民族に追い出されます。その一部が中国雲南地方にいまもいる少数民族となり、一部が東南アジアや日本にわたって稲作漁撈を伝えた、というのが安田喜憲の見立てです。
雲南省少数民族は日本人に顔がよく似ている。麹酒や納豆といった発酵食品も似ているとよくいわれますが、ルーツが同じなら納得できる話ですね。
縄文時代は、本格的な稲作漁撈文明ではなく「半栽培漁撈文明」だ、と安田はとらえます。森のドングリ・クリ・クルミ、山菜やイノシシなどの動物に加えて、海の魚介類が主な食物でした。つまり、縄文時代は「森と海の文化」の時代でした。
縄文後期に入ると、稲作がゆるやかに拡大していくわけですが、安田は「稲作の導入が弥生時代を生んだ」という通説を否定します。森と海の国という日本の原型は縄文時代にすでにできあがっており、それは決して変わらなかったというのです。
読者のみなさんは、稲作は弥生時代に始まったと小学校や中学校で教わり、静岡・登呂の遺跡の写真や弥生時代の想像図を見たことを覚えていませんか。
いまは、籾(もみ)のあとがついた3500年前の土器や、二千数百年まえの水田跡が発見されており、さらにさかのぼれるかもしれない、と考えられているようです。
日本列島には4万年ほど前から人が住みつき、彼らが縄文人の直接の祖先で、その後に弥生人が大陸からわたってきた、とこれまで考えられてきました(二重構造説)。
しかし、縄文人弥生人の骨からDNAを取り出し、日本やアジアに住む人のDNAと比較する遺伝学の最近の成果からは、縄文後期に長江流域のような南方系の人びとの渡来があったようで、三重構造と見るべきではないか、という説が唱えられています。