じじぃの「歴史・思想_164_銃・病原菌・鉄・ポリネシアに定住した人びと」

Primitive People - Australian Aborigines (1950s)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZNIPXa5USZE

A Ngati Pikiao-based kapa haka group

銃・病原菌・鉄: 1万3000年にわたる人類史の謎(上)、ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社(2000年)

【上巻目次】
第1部 勝者と敗者をめぐる謎
第2章 平和の民と戦う民の分かれ道
マオリ族とモリオリ族/ポリネシアでの自然の実験/ポリネシアの島々の環境/ポリネシアの島々の暮らし/人口密度のちがいがもたらしたもの/環境のちがいと社会の分化
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20141209/1473579333

『銃・病原菌・鉄 (上)』

ジャレド・ダイアモンド/著、倉骨彰/訳 草思社 2000年発行

平和の民と戦う民の分かれ道 より

マオリ族とモリオリ族

1835年11月19日、ニュージーランドの東400マイル(約800キロ)のところにあるチャタム諸島に、銃や棍棒、斧で武装したマオリ族500人が突如舟で現われた。12月5日には、さらに400人がやってきた。彼らは「モリオリ族はもはやわれわれの奴隷であり、抵抗する者は殺す」と告げながら集落の中を歩きまわった。数のうえでは2体1とまさっていたモリオリ族は、抵抗すれば勝てたかもしれない。しかし彼らは、もめごとはおだやかな方法で解決するという伝統にのっとって会合を開き、抵抗しないことに決め、友好関係と資源の分かち合いを基本とする和平案をマオリ族に対して申し出ることにした。
マオリ族は、モリオリ族がその申し出を伝える前に、大挙して彼らを襲い、数日のうちに数百人を殺し、その多くを食べてしまった。生き残って奴隷にされた者も、数年のうちにマオリ族の気のむくままにほとんどが殺されてしまった。チャタム諸島で数世紀のあいだつづいたモリオリ族の独立は1835年12月に暴力的に終わりを告げたのである。モリオリ族の生き残りは、そのときの様子をこう話している。「(マオリ族は)われわれをまるで羊みたいに殺しはじめました。……(われわれは)恐れ、藪に逃げ込み、敵から逃れるために地べたの穴の中やいろいろな場所を身を隠しました。しかし、まったくだめでした。彼らはわれわれを見つけては、男も女も子供もみさかいなく殺したのです」。一方、マオリ族の兵士はこう説明する。「われわれは、自分たちの習慣にしたがって島を征服し、すべての住民を捕まえた。逃げのびた者は一人もいない。逃げた者は捕まえて殺した。残りの者も殺した。それがどうしたというのか。われわれは、自分たちの慣習に従って行動したまでである」
モリオリ族とマオリ族の衝突がこのような残忍な結果になることは容易に予想できたことである。モリオリ族は小さな孤立した狩猟採集民のグループであり、たいした技術も持っていなかった。武器も、もっとも簡単なものしか持っておらず、戦いにも不慣れであった。強力な指導力を持つ者もいなかったし、組織的にも統率されていなかった。一方、ニュージーランド北島から侵入してきたマオリ族は、人口の稠密なところに住んでいた農耕民で、残虐な戦闘に加わることも珍しくなかった。モリオリ族より技術面において進んでおり、武器も優れたものを持っていた。グループの統率力も強かった。2つの部族の衝突において、虐殺されたのがモリオリ族であって、その逆でなかったことは当然ともいえる。

環境のちがいと社会の分化

このように、ポリネシアは経済や社会、そして政治において非常に多様である。この多様性は、それらの島々の総人口や人口密度が島によって異なっていることに関係している。それらの島々の人口面での差異は、広さや地形、そして他の島々からの隔絶度が島によって異なるためである。そしてこれらの差異は、島民の生活形態のちがいや食料の集約生産の方法のちがいに関係している。これらの社会に見られるさまざまな相違点はすべて、地球規模で見ればポリネシアという比較的狭い地域で、比較的短い時間のうちに、同じ社会が環境のちがいによって異なる社会に分化した結果、発生したものである。
ポリネシアで発生した多様性は、世界の他の地域で見られるものと本質的に同じものである。もちろん、世界の他の地域の多様性のほうがポリネシアよりずっと変化に富んでいる。ポリネシアのように石器に頼る民族も世界じゅうの大陸で出現しているが、南米では貴金属の利用に熟達した社会も生まれている。ユーラシア大陸やアフリカ大陸では鉄器を使うようになっている。しかし、ポリネシアでは、ニュージーランド以外の島々には金属資源がなかったので、鉄器や貴金属の利用はもともと起こりえなかった。ユーラシア大陸には、ポリネシアに人が定住するようになる以前にいくつもの帝国がすでに出現している。後世には、南米や中米にも帝国が出現している。ポリネシアにも帝国の前身と呼べるようなものが2つ出現したが、そのうちのひとつであるハワイ諸島にはヨーロッパ人が来てから統一されたものにすぎない。ユーラシア大陸と中米は独自の文字も発達させているが、ポリネシアでは文字が生まれることはなかった。イースター島の謎めいた文字も、島民とヨーロッパ人との接触のあとに生まれたものかもしれない。
つまり、ポリネシアの社会を見ても、世界じゅうの社会の多様性をすべて見ることはできない。ここで見られるのは、そのほんの一部だけである。しかし、ポリネシアが世界の一角にすぎないことを考えれば、この結果はまったく驚くにあたらない。くわえて、ポリネシアに人類が住みついたのは遅く、最古のポリネシア社会でも3200年しかたっていない。これに対して他の大陸では、人類が住みついたのがもっとも遅い大陸(南北アメリカ大陸)でさえ1万3000年前である。トンガやハワイの人びとにあと数千年という時間があったら、彼らはおそらく太平洋の支配をめぐって争う2大帝国になっていたかもしれない。帝国統治のために独自の文字を発達させていたかもしれない。ニュージーランドマオリ族も、翡翠などを使った道具だけでなく、銅製や鉄製の道具を発達させていたかもしれない。
ポリネシアは、人間社会が環境によって多様化するという格好の例をあたえてくれたが、ここでいえるのは、ポリネシアの社会は環境のちがいによって変化したのだから、環境による多様化は起こりうる、ということだけである。つまりわれわれは、大陸のおいても同じような変化が起こったかを問わなければならない。そして、もし大陸で同じようなことが起こったのだとしたら、それを引き起こした環境的要因が何であったかを問わなければならない。また、その結果として、大陸社会がどのように多様化したかを問わなければならない。