じじぃの「歴史・思想_162_銃・病原菌・鉄・人種による優劣という幻想」

【15分で解説】銃・病原菌・鉄|世界征服に必要な条件

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Zd3VflbJx6A

Dani tribesmen on the island of New Guinea.

A Discussion with Jared Diamond | Bill Gates

July 18, 2013 GatesNotes
JARED DIAMOND:
This book originated with my idea of writing a somewhat autobiographical book about my experiences in New Guinea for the last 50 years. I found New Guineans fascinating, and I wanted to share with readers my fascination.
https://www.gatesnotes.com/About-Bill-Gates/Discussion-with-Jared-Diamond

銃・病原菌・鉄: 1万3000年にわたる人類史の謎(上)、ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社(2000年)

【上巻目次】
プロローグ ニューギニア人ヤリの問いかけるもの
ヤリの素朴な疑問/現代世界の不均衡を生みだしたもの/この考察への反対意見/人種による優劣という幻想/人類史研究における重大な欠落/さまざまな学問成果を援用する/本書の概略について
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20141209/1473579333

『銃・病原菌・鉄 (上)』

ジャレド・ダイアモンド/著、倉骨彰/訳 草思社 2000年発行

ニューギニア人ヤリの問いかけるもの より

ヤリの素朴な疑問

1972年7月、私は熱帯のニューギニアの海岸を歩いていた。そこで私は生物学者として鳥類の進化について研究していたのだ。私はこの地方に「ヤリ」という名の優れた政治家がいることを聞いていたが、彼もちょうどその土地を訪れていた。その日、海岸を歩いていた私に、たまたま同じ方向に歩いていたヤリが追いついてきた。私たちは1時間ほどいっしょに歩きながら会話を交わした。
ヤリは、カリスマとエネルギーを発散させているような人物で、人を魅了してはなさない瞳の輝きの持ち主だった。彼は自信に満ちた様子で自分について語ったが、いくつもの鋭い質問をなげかけては私の話に熱心に耳を傾けることもした。私たちはまず、当時のすべてのニューギニア人の関心事であった問題、つまり、すさまじい勢いで変化しつつあるニューギニアの政治状況について話しはじめた。

人種による優劣という幻想

ヤリの投げかけた疑問は、わざわざ1冊の本を書かなければ答えられないものなのか。その答えはすでにわかっていることではないのか。もしそうなら、その答えは何だろうか。
おそらく、ヤリの疑問に対するもっとも一般的な解答は、示威的であれ、明示的であれ、生物学的差異を持ちだした説明である。西暦1500年以降、ヨーロッパ人の探検家たちは、技術や政治構造の面で世界の民族のあいだにかなりの差異があることを知った。そして彼らは、そのような差異があるのは、持って生まれた能力が民族によってちがうからだと考えた。ダーウィンの進化論が提唱されると、自然淘汰や進化の経路にもとづく説明が試みられ、原始的な技術しか持たない人びとは、猿に似た祖先からの進化の過程にある人びととみなされた。産業化された社会からやってきた人びとが先住民の土地に移り住み、先住民にとってかわることは、適者生存を実証するものと考えられた。遺伝学が進歩すると、今度は遺伝子のちがいによって民俗間の差異が説明された。ヨーロッパ人は、アフリカ人よりも、とくにオーストラリアのアボリジニよりも、知的な遺伝子をもっていると考えられたのである。
今日、人種差別は、西洋社会で公(おおやけ)には否定されている。しかし、多くの(おそらく、ほとんどの!)西洋人は、個人として、あるいは無意識のうちに、依然として人種差別的な説明を受け容れている。日本やその他多くの国々では、人種差別的な説明がいまだ何の言い訳もされないまま、まかりとおっていたりする。アメリカやヨーロッパやオーストラリアの社会では、高等教育を受けた白人でさえも、話がオーストラリア大陸アボリジニのことになると、ァ、ボリジニ自身に原始的なところがあると考えている。たしかに外見的にはアボリジニは白人とはちがう。ヨーロッパ人の植民地時代を生き延びたアボリジニの子孫の多くは、いま、白人が支配する現代のオーストラリア社会で経済的な成功をおさめることのむずかしさを感じはじめている。
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ニューギニア人のほうが西洋人よりも頭がいいと私が感じる理由は2つある。まず、ヨーロッパ人の社会では今日、生まれた子供はたいていの場合、その知性や遺伝的資質に関係なく生きながらえ、子孫を残すことができる。ヨーロッパ人は、数千年にわたって、集権的政治機構や警察組織や裁判制度が整っている人口の調密な社会で暮らしてきたからである。このような社会では、人びとのおもな死因は、歴史的に見て疫病(天然痘など)であって、殺人は比較的少なく、戦争も例外であったから、死に至る疫病を逃れることができれば、人びとは生きながらえて遺伝子を残すことができた。これに対して、ニューギニア人は、疫病が発生しうるほど人口が調密な社会に暮らしていなかった。そのため、ニューギニア人のおもな死因は昔から、殺人であったり、しょっちゅう起こる部族間の衝突であったり、事故や飢えであった。こうした社会では、頭のいい人間のほうが頭のよくない人間よりも、それらの死因から逃れやすかったといえる。しかし、伝統的なヨーロッパ社会では、疫病で死ぬかどうかの決め手は、頭のよさではなく、疫病に対する抵抗力を遺伝的に持っているかどうかであった。たとえば、血液型がB型やO型の人間は、A型の人間よりも天然痘に対する抵抗力が強い。つまり、頭のいい人間の遺伝子が自然淘汰で残るためのレースは、ニューギニア社会のほうがヨーロッパ社会よりもおそらく過酷だったのである。そして、人口が稠密で、政治機構の複雑なヨーロッパ社会では、遺伝的抵抗力による自然淘汰の比重のほうが高かったのである。
2つめの理由は、遺伝的なものではない。それは、現代のヨーロッパやアメリカの子供たちが受動的に時間を過ごしていることにある。アメリカの標準的な家庭では、子供たちが1日の大半をテレビや映画を見たりラジオを聞いたりして過ごしている。テレビは、平均して1日7時間はつけっぱなしである。これに対して、ニューギニアの子供たちは、受動的な娯楽で楽しむぜいたくにほとんど恵まれていない。たいていの場合、彼らは他の子供たちゃ大人と会話したり遊んだりして、積極的に時間を過ごしている。子供の知性の発達を研究する人びとは、かならずといっていいほど刺激的な活動の大切さを指摘する。子供時代に刺激的な活動が不足すると、知的発育の阻害が避けられないとも指摘している。これが、ニューギニア人のほうが西洋人よりも平均して頭がいいと思われる状況に貢献している非遺伝的な理由である。
このように見てくると、知的能力ではニューギニア人は西洋人よりもおそらく遺伝的に優れていると思われる。また、今日の産業化社会に見られるような、知的発育にダメージをあたえうる悪影響のもとで子供たちが育っていないという点でも、ニューギニア人のほうに軍配があがる。したがって、ニューギニア人の知的能力が劣っていることを、ヤリの投げかけた疑問への答えとする根拠はどこにもない。前記の2つの理由が、ニューギニア人と西洋人だけでなく、狩猟採集民など、技術面で原始的な社会の人びとと、技術面で進んだ社会の人びととのあいだにちがいを生みだしている可能性は高い。であるならば、人種差別的な考え方は、その論旨の主客を逆転させて、つぎのような疑問をわれわれに呈していることになる。すなわち、なぜ、ヨーロッパ人は、遺伝的に不利な立場にあったにもかかわらず、そして(現代では)知的発育にダメージをあたえうる悪影響のもとで育っているにもかかわらず、より多くの「Cargo(積み荷)」を手にするようになったのか。私がヨーロッパ人よりもずっと優れた知性を持っていると信じるニューギニア人は、なぜ、いまでも原始的な技術で生活しているのだろうか。