じじぃの「歴史・思想_155_ホモ・デウス・聖なる教義」

What are Catholic Indulgences?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=r-oY7XoO4EU

The selling of Indulgences

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 2018/9/5 ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (翻訳) Amazon

世界1200万部突破の『サピエンス全史』著者が戦慄の未来を予言する! 『サピエンス全史』は私たちがどこからやってきたのかを示した。『ホモ・デウス』は私たちがどこへ向かうのかを示す。
全世界1200万部突破の『サピエンス全史』の著者が描く、衝撃の未来!
【上巻目次】
第2部 ホモ・サピエンスが世界に意味を与える
第5章 科学と宗教というおかしな夫婦
病原菌と魔物/もしブッダに出会ったら/神を偽造する/聖なる教義/魔女狩り

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『ホモ・デウス(上) テクノロジーとサピエンスの未来』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳 河出書房新社 2018年発行

科学と宗教というおかしな夫婦 より

病原菌と魔物

超自然的な力を信じるのを教会と同一視するのは、既知のあらゆる自然現象を宗教抜きで理解できることを意味する。宗教はオプションのおまけにすぎないというわけだ。自然界全体を完璧に理解してしまえば、今度は「超自然的」な宗教的教義を加えるかどうかを選べる。ところが、ほとんどの宗教は、その宗教抜きにはこの世界をりかいすることなど望むべくもないと主張する。その宗教の教義を考慮に入れなければ、病気や旱魃地震の真の原因はけっして理解できないというのだ。
宗教を「神の存在を信じること」と定義するのにも問題がある。敬虔なキリスト教徒は神を信じているから宗教的だが、共産主義には神がないから熱心な共産主義者は宗教的ではない、と私たちは言いがちだ。とはいえ、宗教は神ではなく、人間が創り出したもので、神の存在ではなく社会的な機能によって定義される。人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教だ。宗教は、人間の社会構造は超人間的な法を反映していると主張することで、その社会構造を正当化する。
宗教は、私たちが創作したわけでもなく変えることもできない道徳律の体系に、私たち人間は支配されている、と断言する。敬虔なユダヤ教徒なら、これは神が生み出し、聖書の中で明かされた道徳律の体系だと言うだろう。ヒンドゥー教徒なら、ブラフマーとヴィシュヌとシヴァが法を定め、それがヴェーダの中で私たち人間に明かされたというだろう。仏教や道教から共産主義やナチズムや自由主義まで、他の宗教は、これらのいわゆる超人間的な法は自然の摂理であり、どこかの神の創造物ではないと主張する。もちろん、そうした宗教のどれもが、ブッダ老子からマルクスヒトラーまで、異なる先覚者や預言者によって見出されたり明かされたりした一連の異なる自然の摂理を信奉している。
ユダヤ人の男の子が父親のもとに来て、「お父さん、なんで豚肉を食べちゃいけないの?」と尋ねる。すると父親は、波打つように長く伸びた顎鬚を思慮深げに撫でながら、こう答える。「それは、ヤンケレ、世の中とはそういうものだからだ。お前はまだ幼いからわからないだろうが、もし豚肉を食べたら、神さまに罰せられ、ろくなことにならない。これはお父さんの考えではない。ラビの考えでさえない。仮にラビがこの世を造っておられたたら、そこは豚肉を食べてもまったく問題ない世界になっていたかもしれない。だが、この世を造ったのはラビではなく神さまだ。そして、お父さんにもなぜだけわからないが、神は豚肉を食べてはならないとおっしゃった。だから食べてはいけないんだよ。わかったかい?」
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宗教にとって、霊性は権威を脅かす危険な存在だ。だから宗教はたいてい、信徒たちの霊的な探求を抑え込もうと躍起になるし、これまで多くの宗教制度に疑問を呈してきたのは、食べ物とセックスと権力で顔がいっぱいの俗人ではなく、凡俗以上のものを期待する霊的な真理の探究者たちだった。たとえば、カトリック教会の権威に対するプロテスタントの反抗を煽ったのは、快楽主義の無神論者たちではなく、むしろ、敬虔で禁欲的な修道士のマルティン・ルターだった。ルターは生命についての実存的疑問に対する答えを求め、教会が提示する儀式や典礼や取り決めで満足することを拒んだ。
実際、ルターの時代には、教会は信徒にじつに魅力的な取り決めを約束していた。もし、罪を犯し、あの世で永遠の罰を受けるのを恐れているのなら、財布を開けて免罪符を買いさえすればよかった。16世紀初頭、教会は専門の「救済行商人」を雇い、ヨーロッパの町や村を回って、決められた値段で免罪符を売り歩かせた。天国への入国ビザが欲しい? 金貨を10枚払ってください。亡くなったハインツおじいさんとゲルトルートおばあさんにも、天国に来てもらいたい? 大丈夫。でも、それには金貨が30枚必要ですよ、という調子だ。そうした行商人のうちでも最も有名なのがドミニコ会修道士のヨハン・テッツェルで、金箱に投じた金貨がチャリンと音を立てた瞬間に、魂は煉獄(れんごく)を飛び出して天国に行くと言ったとされる。
ルターはこれについて考えれば考えるほど、この取り決めと、それを提供する教会がいかがわしく思えた。お金を出して救済してもらえるはずがない。ローマ教皇には、人々の罪を許して篆刻の門を開く権限があるはずがない。プロテスタントの伝承によると、1517年10月31日、ルターは長い文書とハンマーと釘を携えて、ヴィッテンブルグの諸聖人教会に歩いていった。その文書には、免罪符の販売をはじめとする当時の宗教慣行に抗議する95ヵ条の論題が列挙されていた。ルターはそれを教会の扉に釘で打ちつけ、宗教改革を引き起こした。それは、救済に関心があるキリスト教徒であれば誰でも、ローマ教皇の権威に反抗し、天国への別の道筋を探すように呼びかける革命だった。