じじぃの「歴史・思想_152_ホモ・デウス・農業革命・家畜のブタや牛」

Gestation Crates

Help End The Use of Gestation Crates!

The Animal Rescue Site, a GreaterGood project
Imagine being confined to a steel pen without enough room to even turn around, being forced to stand and lay on a slatted floor, and living a couple feet above your own waste. For more than 5 million pigs in the United States, this is a horrendous reality.
https://theanimalrescuesite.greatergood.com/clicktogive/ars/petition/Gestation-Crates-ARS

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 2018/9/5 ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (翻訳) Amazon

世界1200万部突破の『サピエンス全史』著者が戦慄の未来を予言する! 『サピエンス全史』は私たちがどこからやってきたのかを示した。『ホモ・デウス』は私たちがどこへ向かうのかを示す。
全世界1200万部突破の『サピエンス全史』の著者が描く、衝撃の未来!
【上巻目次】
第2章 人新世
ヘビの子供たち/祖先の欲求/生き物はアルゴリズム/農耕の取り決め/五〇〇年の孤独

                      • -

『ホモ・デウス(上) テクノロジーとサピエンスの未来』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳 河出書房新社 2018年発行

人新世 より

祖先の要求

あらゆる本能や衝動や情熱は、生存と繁殖の進化圧に応じるために進化したというのは、たしかに正しい。ただし、そうした圧力が突然消えたからといって、それが形成してきた本能や衝動や情動まで一緒に消えてなくなるわけではない。少なくとも、ただちには。これらの本能や衝動や情動は、生存と繁殖にはもう役立たないとしても、依然として動物の主観的経験を形作り続ける。動物にとっても人間にとっても同様に、農業は選択圧をほとんど一夜にして変えてしまったが、彼らの身体的、情緒的、社会的衝動は変えなかった。もちろん、進化はけっしてじっと立ち止まはしないから、農業が登場してからの1万2000年間も、人間と動物を改変し続けてきた。たとえば、ヨーロッパと西アジアの人間は、牛乳を消化する能力を進化させ、一方、牛は人間への恐れを失い、今日では野生の祖先よりもはるかに多くの乳を出す。とはいえ、これらは表面的な変化にすぎない。牛やブタや人間の奥深くにある感覚や情動の構造はどれもみな、石器時代からほとんど変わっていない。
    ・
今日、工場式農場のメスブタの大半は、コンピューターゲームはやらない。人間の主人によって、たいてい幅60センチメートル、奥行き2メートルほどの狭い妊娠ブタ用檻(クレート)に押し込められている。金属の棒ででできたクレートの床はコンクリートで、妊娠中のブタは向きを変えることも、横たわって寝ることもできない。歩くことなど問題外だ。このような境遇で3ヵ月半過ごした後、わずかに広いクレートに移され、そこで出産し、子ブタたちに授乳する。自然な環境では子ブタは10~20週間、乳を吸うが、工場式農場では2~4週間以内に無理やり離乳させられ、母親から引き離されて出荷され、太らされて殺される。母親はただちに再び妊娠させられ、妊娠用ブタ用クレートに戻されて、次のサイクルに入る。典型的なメスブタは、このサイクルを5~10回繰り返した後、自分も屠られる。近年、こうしたクレートは欧州連合アメリカの一部の州では使用が制限されているが、他の多くの国では広く使われており、何千万頭もの繁殖用のネスブタがほぼ一生をその中で過ごしている。

500年の孤独

農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するのあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる。
有神論が神の名において伝統的な農耕を正当化したのに対して、人間至上主義は人間の名において現代の工場式農業を正当化してきた。工場式農業は人間の欲求や気まぐれや願望を神聖化する一方で、それ以外はすべて軽んじる。工場式農業は動物には真の関心をまったくもたない。動物には人間性の持つ神聖さがないからだ。また、神を少しも必要としない。現代のテクノロジーによって、人間は古代の神々をはるかに凌ぐ力を与えられているからだ。科学のおかげで、現代の企業は牛やブタやニワトリを、伝統的な農耕社会で一般的だった状態よりもなおさら厳しい状態に置くことが可能になった。
古代エジプトローマ帝国、中世の中国では、人間は生化学や遺伝学、動物学、疫学について初歩的な事柄しか理解していなかった。そのため、彼らが動物を操作する力は限られていた。当時、ブタや牛やニワトリは家々の間を自由に動き回り、ゴミの山や近くの森で食べ物を探した。もし野心的な農民が狭苦しい小屋に何千頭もの動物を押し込めようとしたら、おそらく致命的な感染症が起こり、すべての動物ばかりか多くの村人も命を落としていただろう。神官にもシャーマンにも神にも、それは防ぎようがなかったはずだ。
だが、現代の科学が感染症と病原体と抗生物質を解明してしまうと、工業化された檻や囲いや小屋の実現が可能となった。予防接種や薬剤、ホルモン、殺虫剤、セントラル空調システム、自動給餌機の助けを借りることで、今や何万というブタや牛やニワトリを幾列も整然と並んだ窮屈なケージに詰め込み、肉や牛乳や卵を前例のないほど効率的に生産することができる。
そのような慣行は、近年、人間と動物の関係を人々が見直し始めたため、しだいに批判にさらされるようになってきた。私たちは突然、いわゆる「下等な生き物」の運命に、今までにない関心を見せている。それはひょっとすると、私たち自身が「下等な生き物」の仲間入りをしそうだからかもしれない。もしコンピュータープログラムが人間を超える知能と空前の力を獲得することがあれば、私たちはそのようなプログラムを人間以上に高く評価し始めるべきなのか? たとえば、AIは自らの必要や欲求を満たすために、人間を搾取したり、さらには殺しさえしたちしてもいいのだろうか? もし、AIのほうが優れた知能と力を持っているにもかかわらず、それがけっして許されるべきでないとしたら、人間がブタを搾取したり殺したりするのがどうして倫理に敵うのか?