じじぃの「歴史・思想_119_数学の天才・先駆者・エミー・ネーター」

The most significant genius: Emmy Noether

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rqfj7n5aSwY

Emmy Noether

エミー・ネーター 1882-1935 数学者・ドイツ人

ネーターは着実に名声を積み上げてきた。それまでの八年間、彼女は給与も役職もなしにエルランゲン大学で働いていた。ゲッティンゲン大学に転職するまで、彼女は六本ほどの論文を発表し、海外で講義を行い、博士課程の学生に指導し、エルラングン大学の数学教授で健康が悪化していた父、マックス・ネーターの代講を務めている。
当時のネーターの専門は不変量、つまり回転や線対象移動といった変換をしても変わらない構成要素だった。一般相対性理論にとって、彼女の知識基盤は不可欠だった。ネーターはアインシュタインが必要とした連結方程式を生み出すのを手伝った。彼女の公式はエレガントで、その思考プロセスと想像力は研究に光をもたらした。
https://blog.goo.ne.jp/tgalmoh/e/7826d3ea2137e108682bb7d0348f9b88

『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』

イアン・スチュアート/著、水谷淳/訳 ダイヤモンド社 2019年発行

学問の慣例を覆す エミー・ネーター より

●アマーリエ・エミー・ネーター(ドイツ1882~アメリカ1935年)
1913年、連続講義をおこなうためにウィーンに滞在していた名高い女性数学者エミー・ネーターは、さまざまな分野で研究したがとくに数論の業績で知られる数学者、フランツ・メルテンスのもとを訪ねた。そのときの様子を、のちのメルテンスの孫が次のように振り返っている。
  女性なのに、田舎の教区からやって来たカトリックの司祭のように見えた。かかとくらいまであるかなり地味な黒いコートを着て、ショートヘアの顔に男物の帽子をかぶっていた。……そして、帝国時代の鉄道の車掌のようにショルダーバッグを斜め掛けしていた。かなり風変わりな外見だった。
その2年後、この目立たない人物が、数理物理学最大の発見を成し遂げた。発見したのは、対称性と保存則との基本的な結びつきである。これ以降、自然法則の対称性は物理学で中心的な役割を果たすこととなる。今日では量子論における素粒子の「標準モデル」の礎となっており、対称性に頼らずにそれを記述するのはほぼ不可能である。
ネーターは抽象代数学の発展を率い、さまざまな種類の数や式における計算を、それらの系が従う代数法則に基づいて一つにまとめた。特別な構造や式を重視していた19世紀から20世紀はじめの新古典時代と、一般性や抽象性や概念的思考を重視する1920年頃以降の現代とを画した変化に、おそらくほかのどんな数学者よりも貢献したのが、このメルテンスの孫いわく「風変わりな人物」だった。

ナチスユダヤ人排除でアメリカへ

ネーターは代数学以外の分野にも目を向けた。同じ発想をトポロジーにも持ち込んだのだ。初期のトポロジー学者は、互いに独立したサイクル(ある性質を持った閉じたループ)の個数といった、組み合わせ論的な概念をトポロジー不変量としてとらえていた。その後ポアンカレが、ホモトピーの概念によってさらなる構造を付け加えた。しかしネーターはトポロジー学者のやっていることを見て、誰もは見逃している事柄にすぐ気づいた。それは、その根底にある抽象代数学的な構造である。サイクルはただ数えられるだけでなく少し工夫すれば群に変えることもできるのだ。こうして、組み合合わせ論的トポロジー代数学トポロジー(代数的位相幾何学)に変貌した。
ネーダーのこの考えはすぐに、ハインツ・ホップやパヴェル・アレクサンドロフなどから熱狂的に支持された。これと同様の考え方は、1926年から28年のあいだにオーストリアのレオポルト・ヴィートリスやヴァルター・マイヤーによっても独立に考え出され、トポロジー空間の基本的な不変量であるホモロジー群の定義へつなはった。代数学組み合わせ論に取って代わり、それなでトポロジー学者が利用できていたよりもはるかに豊かな構造を暴き出したのだ。
1929年にネーターはモスクワ国立大学を訪れて、アレクサンドロフと共同研究を行ない、また抽象代数学代数幾何学の講義をおこなった。政治活動に関することこそなかったが、科学や数学の機会を開くロシア革命に対しては控えめに支持を示した。しかしそれに対して大学当局はいい顔をせず、学生たちが、マルクス主義者に共感を寄せるユダヤ女が寮にいると苦情を申し立てると、ネーターは立退きを余儀なくされた。
1933年、ナチスが大学からユダヤ人を排除しはじめると、ネーターはまずモスクワで職を得ようとするも、結局はロックフェラー財団の支援を受けてアメリカのブリンマー大学へ移った。プリンストン高等研究所でも講義をおこなったが、アメリカでも「女性は何一つできない、男性のための大学」は居心地が悪いと不満をこぼした。
それでもアメリカでの生活を満喫したが、それも長く続かなかった。1935年、ネーターは癌の手術ののちに合併症で亡くなった。アルベルト・アインシュタインは[ニューヨーク・タイムズ]に次のように寄稿している。
  存命中のきわめて有能な数学者たちが判断するところ、ネーター女史は、女性への高等教育が始まってからこれまでに輩出されたなかでも最も重要で創造的な数学の天才だった。何百年にもわたってきわめて優秀な数学者たちが取り組んできた代数学の分野において、彼女が発見した数々の手法は、今日の若い世代の数学者を育むうえでとてつもなく重要であることが明らかとなっている。
それだけではない。ネーダーは男性のフィールドで戦い、男性を打ち負かしたのだ。