じじぃの「歴史・思想_118_数学の天才・先駆者・ヒルベルト」

THE 20th CENTURY : DAVID HILBERT

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=f3tvuCJltZA

David Hilbert

ヒルベルト空間

ウィキペディアWikipedia) より
数学におけるヒルベルト空間(Hilbert space)は、ダフィット・ヒルベルトにその名を因む、ユークリッド空間の概念を一般化したものである。
これにより、二次元のユークリッド平面や三次元のユークリッド空間における線型代数学や微分積分学の方法論を、任意の有限または無限次元の空間へ拡張して持ち込むことができる。ヒルベルト空間は、内積の構造を備えた抽象ベクトル空間(内積空間)になっており、そこでは角度や長さを測るということが可能である。ヒルベルト空間は、さらに完備距離空間の構造を備えている(極限が十分に存在することが保証されている)ので、その中で微分積分学がきちんと展開できる。
ヒルベルト空間は、典型的には無限次元の関数空間として、数学、物理学、工学などの各所に自然に現れる。そういった意味でのヒルベルト空間の研究は、20世紀冒頭10年の間にヒルベルト、シュミット、リースらによって始められた。ヒルベルト空間の概念は、偏微分方程式論、量子力学フーリエ解析(信号処理や熱伝導などへの応用も含む)、熱力学の研究の数学的基礎を成すエルゴード理論などの理論において欠くべからざる道具になっている。これら種々の応用の多くの根底にある抽象概念を「ヒルベルト空間」と名付けたのは、フォン・ノイマンである。ヒルベルト空間を用いる方法の成功は、関数解析学の実りある時代のさきがけとなった。

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『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』

イアン・スチュアート/著、水谷淳/訳 ダイヤモンド社 2019年発行

我々は知らなければならない、我々は知ることになろう ダフィット・ヒルベルト より

●ダフィット・ヒルベルト(ロシア1862~ドイツ1943年)
一人のドイツ人教授が、68歳になって引退を余儀なくされた。1930年、ダフィット・ヒルベルトがこの節目を迎えると、その傑出した学者人生の公式の幕引きを祝す公開式典が数多く開かれた。ヒルベルト自身は、不変式の有限基底の存在と言う、自身初の大きな成果について講演した。自動車愛好家たちは、新たにヒルベルト通りと命名された道をパレードした。妻に「いいアイデアね!」と言われると、ヒルベルトは「アイデアは良くないが、それを実行したのは見事だ」と答えたという。
なかでも最も嬉しかったのが、出生地の近郊の町ケーニヒスベルクの名誉市民に叙せられたことだった。ドイツ科学者医学者協会の会合でその称号が授与されることになり、ヒルベルトは受章講演をすることになった。幅広い層の人が理解できる講演にしなければならないと考えたヒルベルトは、イマニュエル・カントがケーニヒスベルク生まれであることから、哲学的側面を持つテーマがいいだろうと判断した。さらに、自身の生涯の研究をまとめたものでもなければならない。
そこで結局、「自然の知識と論理」という題目に落ち着いた。

20世紀の数学研究を方向付けたヒルベルト問題

ヒルベルトの影響力を考えるうえでどうしても外せないのが、数学の様々な「分野における23の重要な未解決問題のリスト、いわゆるヒルベルト問題である。
1900年にパリで開催された第2回国際数学者会議での講演中に示されたこのリストが、20世紀の数学研究のかなりの部分を方向付けた。
挙げられた問題としては、数学の無矛盾性の証明、物理学の公理的取扱いに関する比較的漠然とした問題、超越数に関する問題、リーマン予想、任意の数体における最も一般的な相互法則、デォオファントス方程式が解を持つ場合を決定するアルゴリズム、および、幾何学代数学解析学におけるさまざまな学問的問題がある。そのうちの10の問題は完全に解決され、3つはいまだに未解決、いくつかは漠然としすぎていて、何を持って答えと呼んでいいかわからず、2つはきわめて厳格な意味で答えがない。
この23の問題は、それを解こうとする営みを通じてヒルベルト以降の数学を形作っただけでなく、その後の半世紀にわたる数学の発展に、大きな、そしておおむね有益な影響をおよぼした。数学者仲間のあいだで一目置かれたければ、ヒルベルト問題を一つ解くのが近道だった。
ヒルベルトは歳を重ねるにつれて、数理物理学への興味を深めていった。研究者人生を純粋数学でスタートさせて、のちに徐々に応用に傾いていくというのは、数学者ではよくあることだ。1909年にヒルベルト積分方程式の研究をおこない、いまでは量子力学に欠かせないヒルベルト空間の概念を導いた。また、一般相対論の方式をアインシュタインに先んじて発見する一歩手前まで来た。1915年、アインシュタインが発表する5日前に出版された論文のなかで、アインシュタイン方程式につながる変分原理をを示すしたものの、その方程式そのものは書き損ねたのだ。
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1933年、ナチスゲッティンゲン大学の教授陣からユダヤ人をつまみ出して一掃しはじめた。標的となった一人が偉大な数理物理学者のヘルマン・ヴァイル(ワイル)、1930年にヒルベルトが退職したとき後継者となった人物である。ほかにも、エミー・ネーター、数論学者のエドムント・ランダウヒルベルトとともに数理論理学の共同研究をおこなったパウル・ベルナイスがいる。1943年には数学科のほぼ全員がナチス政権に協力的な人物に入れ替えられ、かつての栄光は見る影もなくなった。その年、ヒルベルトは亡くなった。
ヒルベルトはすべてを予見していた。この数年前。教育大臣ベルンハルト・ルストがヒルベルトに、ゲッティンゲン大学数学研究所からユダヤ人がいなくなって困ってはいないかと尋ねた。ばかげた質問だった。かつての教授陣のほとんどがユダヤ人かその配偶者だったからだ。ヒルベルトぶっきらぼうに答えた。
「困っているって? もう教授陣自体が存在しないじゃないか」