じじぃの「歴史・思想_103_フーコー・キュニコス派(犬儒派)」

差別感情の哲学 (講談社学術文庫中島義道 楽天ブックス

差別感情という人間の奥底に潜んでいるものを徹底的に炙り出している力作。
著者の中島義道に関しては、社会不適合である自意識のある人に寄り添い、励ましてくれるような言葉を投げかけてくれるような印象を勝手にもっていたが、概ね間違ってはいなかったようだ。本書でも中島義道は「常識」や「普通」といった言葉の危険性を訴え、違和感を実直に書き連ねることで、同じような経験をした読者との間に共感の橋を架けている。
文中に出てきた「パレーシア」という概念が気になるので、その発案者のフーコーもかじってみたいと思った。
昨今の群集化した怒りの感情や、過激な差別反対主義に違和感を感じる人は読んでみても良いかもしれない。
https://books.rakuten.co.jp/rb/13092052/

ミシェル・フーコー―― 自己から脱け出すための哲学』

慎改康之/著 岩波新書 2019年発行

自己をめぐる実践 パレーシア より

パレーシアとは、「率直な語り」という意味を持つギリシャ語である。語源的に「すべてを語ること」を意味し、古代ギリシャから初期キリスト教にかけて大きく変遷したとされるこのパレーシア概念について、フーコーは、それがどのようにして自分の前に現れたのかということを、1984年の『真理の勇気』初回講義において次のように語っている。
自己が自己自身に関して真理を語るという実践について探求を進めていくなかで、そうした実践が、それに耳を傾ける他者の助けを必要としていたことが明らかになってきた。そしてそのように補助者ないしパートナーの役割を果たすために、その他者にとって必要とされていた資格こそがまさしく、相手に対し勇気をもって率直に語ることとしてのパレーシアだったのだ、と。
そしてフーコーは、パレーシアに関する分析が、古代世界における自己の技術の変遷に関する探究のために役立つばかりでなく、現代の我々に至る1つの伝統を問い直すためにも有用であるとみなす。というのも、主体が自らの真理を他者に対して語る、という実践は西洋において、告解する者と聴罪司祭、患者と精神分析医などといったカップルのあいだや後に組織化され発達することになるものであるからだ。つまり、パレーシアについて研究することは、そのように長きにわたって続けられてきた実践に関して、その前史を問うのとして価値づけられうるであろう、というわけだ。
こうして、最晩年のフーコーのコレージュ講義が、パレーシア概念に関する探究に捧げられることになる。この概念がギリシャにおいてまず政治的実践の領野において現れるということ、そしてそれが後に個人の倫理や道徳的主体の攻勢にかかわるものへと向きを変えるということを順に示した後、1984年3月の講義においてフーコーがとくに長い時間をかけて検討することになるのが、キュニコス派犬儒派)のパレーシアである。

キュニコス派は、ぼろ布をまとい大甕を住処としていたとされるシノペのディオゲネスに象徴されるとおり、社会的規範を軽視つつ自然に従う「犬のような生(キュニコス・ビオス)」を送った人々として知られている。

そのキュニコス派を、自らのスキャンダラスな生き方そのものによって真実を率直なやり方でで現し出そうとした人々として特徴づけながら、フーコーが主張するのは、そうしたキュニコス主義的パレーシアに関する分析が、異教的なものとキリスト教的なものとの関係をあらためて問い直すために役立つであろうということである。
自己の技術に関するそれまでのフーコーの研究のなかで、異教とキリスト教とのあいだに見いだされたのは、自己の自己による支配の原則と、自己の放棄の原則という、2つの原則のあいだの根本的な対立であった。キュニコス派のパレーシアは、いわば、それらの中間的ないし媒介的形象を構成するものとして現れる。つまり、キュニコス主義には、ギリシャ的な自己への配慮とキリスト教的な忍耐や禁欲という2つの側面から同時に見いだされるということ、したがって、これを検討することによって、一方から他方への移行がどのように起こるのかを考える新たな手がかりが得られるということだ。
そしてフーコーは、キュニコス派に関する検討を終えた後、1984年3月28日に行われた最終回の講義において、キリスト教的な自己の実践の登場をパレーシアという語の語義の変遷と関連づけながら考察することこそが、今後の自らの研究課題であると述べることになる。古典期ギリシャからキリスト教初期に至るまでに自己の技術がどのように変化したのかという問いが、パレーシア概念を手がかりとしてあらためて問い直されるということ。要するに、フーコーは結局、彼の死によって中断されることになるその最後の研究計画に至るまで、古代世界にとどまり、自己と自己との関係をめぐる探求に専念し続けるのである。