じじぃの「神話伝説_173_オリゲネス(古代キリスト教最大の神学者)」

CHRISTIAN persecution in ancient ROME. 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wCvdybm7Fjg
オリゲネス ウィキペディアWikipedia)より
オリゲネス(Origenes Adamantius, 182年? - 251年)は、古代キリスト教最大の神学者。いわゆるギリシア教父とよばれる神学者群の一人で、アレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在。
『諸原理について』(De Principiis)など膨大な著作を著したが、死後異端の疑惑をかけられたため、多くの著作が処分された。キリスト教の教義学を初めて確立し、その後の西欧思想史に大きな影響を与えたと評される。
249年、デキウス帝による迫害のさなかに捕えられ、獄に投じられた。皇帝の死によって迫害が終わった後で解放されたが、獄中で体調を崩しており、まもなく亡くなった。

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『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』 フランチェスコ・アルベローニ/著、大久保昭男/訳 草思社 1999年発行
恋愛とエロティシズム (一部抜粋しています)
では、性に関してはどうだろうか。キリスト教的な宗教心が衰退した理由の一つに、性に対する態度の変化も含まれていないだろうか。キリスト教が生を恐れ、性を敵視してきたのに対して、現代の世界は聖を露わにし、性に価値を見出し、罪の意識を払拭し、品格さえ付与した。
おそらくこれこそは、文明の発展、精神神経症理論、さらには無意識についての理論の発展に、フロイトがもたらした最大級の貢献である。彼の思想に負う長い準備がなかったならば、文字通り伝統的な性道徳を崩壊させた60年代の性の革命もなかったはずである。まさにそれは崩壊したのである。
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ところで、エロティシズムとキリスト教のあいだにある関係の本質を理解するためには、それが歴史的にどのように形成されてきたのかを理解しなければならない。肉体的な快楽に対する差別は、ミシェル・フーコーが著作中で述べているように、すでにキリスト教以前の多神教時代の後期に始まっていた。
しかし、キリスト教の運動がそれに新たな次元と意味を与えたのである。キリスト教は神の王国を宣言し、この王国に対して現実世界を低いものとみなし、精霊に対して肉体を低いものとみなす。新たなる人間であり、生まれ変わった者であるキリスト教徒は、本質的に神とその愛徳に帰依しなければならない。現実世界やその快楽に屈してはならないのである。
キリスト教的節制の最大の擁護者はオリゲネスアレキサンドリア生まれの神学者)で、彼は神秘主義者であった。その説によれば、性は避けるべきものでも抑制すべきものでもないが、それは、性の原初期の強さをとり戻し、神を求め、神のなかに至福を見出すという観念的なエロスであるべきであった。一方、単純な肉体の快楽は堕落であり、脆弱で生彩を欠くもので、より劣等で愚かしい肉体的感覚であるとみなさなければならなかった。
また、聖アウグスティヌスも、禁欲節制に身を捧げた人々のなかに神の愛と慈悲がより豊かに満ちあふれていると信じていたので、貞潔の誓いを擁護した。これは誤りではなかった。のちにフロイトが、これは人間の性的衝動がそのような形で、”昇華”するために起こるものであると説明するのである。
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恋する人たちは、恋をすることが天と地を一つに結ぶような神聖なこと、宗教的な行動であるという思いをはっきりと抱いている。秘蹟としての婚姻という観念は、愛しあう恋人たちの、この深くて始原的な体験を思想的に、制度・慣習的に書きかえたものにほかならない。愛の発生期には、個人は宇宙や自然と融合しているような思いを抱く。自己のなかに大宇宙を実現するのは、人間という小宇宙なのである。
心底からの恋愛において、愛の場所や愛が明かされる日時なども神聖な意味を帯びていて、愛しあう2人は自分たちのために、現実世界の聖なる地図や典礼のカレンダーをつくりあげる。そしてそれは、無限の生の驚きであるような究極の本質をわずかにでものぞくことができるほど幸福であったときを彼らに思い起こさせ、それらを銘記するように彼らを促すのである。