じじぃの「神話伝説_106_マルティン・ルター(プロテスタント教会)」

讃美歌267番 神は我がやぐら 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lNNuDhY73jA
Introduction to the Protestant Reformation: Martin Luther (2 of 4) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dSOnLt3YVl0
キリスト教Q&A
プロテスタントは「聖書のみ」に従います。そのため、ローマ法王のような権威は認めず、階層構造を持つ組織もありません。
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/theollife/qanda01.htm
宗教改革記念日 讃美歌267番「神はわがやぐら、」
10月31日は宗教改革記念日です。1517年のこの日、現在のドイツのヴィッテンベルグ大学教授であったマルテイン・ルター(1483-1546、ドイツ)は、ヴィッテンベルグ城教会の門扉に「95か条の提題」を張り出し、魂の救済を免罪符など金銭で売買するローマ教皇庁に公然と抗議し、宗教改革の烽火をあげました。この改革運動は全ヨーロッパに広まりカトリック教会に対してプロテスタント派として現在に至っています。ルターの「聖書のみ」(聖書のみに忠実な教会)、「信仰のみ」(純粋な信仰のみによる内的救済)、「万人祭司」(神の前での平等)の主張は、宗教改革の3大原理として全てのプロテスタント教会の共有財産となっています。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~chfujimi/reformation-day.htm
マルティン・ルター ウィキペディアWikipedia)より
マルティン・ルター(Martin Luther、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、宗教改革創始者。聖アウグスチノ修道会に属するドイツ人神学教授として、ルターは「人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」ことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらした。キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウクスブルク信仰告白が形成された。

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キリスト教の本 下 聖母・天使・聖人と全宗派儀礼 増田秀光/編 学習研究社 1996年発行
聖書への原点回帰 ルターの宗教改革 (一部抜粋しています)
プロテスタントは16世紀、マルティン・ルター宗教改革運動から始まったもので、カトリックの方針にプロテスト(抗議)して、そこから分離したキリスト教各派をいう。
ルター以前にも。教皇を反キリストと呼び、聖書中心主義を唱えたジョン・ウィクリフや、カトリック教会の堕落を批判しつづけたヤン・フスのような宗教改革の先駆者がいる。いずれも異端宣告され、排除されたが、ルターに絶大な影響を与えた。
ルターが現れる時代状況として、人間性の解放と尊重を強調するルネサンスのユマニスム(人文主義)運動の盛り上がりがあった。オランダの人文学者エラスムスがその中心で、聖書の翻訳や注釈作業を通して宗教改革運動を準備することになる。
ユマニストは教会の堕落を正す方向づけをしたが、教会と直接対決して変革する意志はなかった。エラスムス自身、ルターの宗教改革に同情的であったが、のちにルターの宗教的熱狂性を嫌い、訣別する。とはいえエラスムスらによって宗教改革運動のための外部的な機運が醸成されていたことは疑いなかった。
そのような状況下で、ルターは1517年に免罪符反対などの95ヵ条の提題を掲げ、それがきっかけで宗教改革運動が実現するのである。
ルターには、宗教改革をもたらすことになる内的動機があった。それは救済論的な福音主義と呼ばれるものである。
福音主義は、キリスト教信仰の理解の根底に、「聖書」の福音の理解を据えようとしたもので、それがプロテスタンティズムの基礎をなしているといえる。
1483年、中部ドイツに生まれたルターは司祭となり、ヴィッテンベルグ大学で聖書学を講義するようになった。1510年にローマへ遊学した際、聖職者の堕落ぶりに失望し、改革の必要性を意識するようになったといわれるが、それ以上にカトリック神学では救われないという深刻な悩みを抱いていた。
そこからルターは聖書中心主義を打ち出し、人間は「罪人にして同時に義人」という信仰の境地に達したのである。人間はカトリックのいうように「善行」によってではなく、「信仰のみ」によって真の救いがもたらされるとした。
そのような視点からルターは、教皇の無謬(むびゅう)説を否定し、聖職者と信徒の身分上の違いを認めず、聖典礼(サクラメント)を洗礼と聖餐(せいさん)のみに限定し、信仰者はすべて神の前に立つという万人祭司を唱えた。
それらの革新的な思想は「キリスト教の自由」など宗教改革の3大文書等に記載されている。
ルターを異端視した教皇は、その所説の撤回を要求する回勅(かいちょく)を突きつけた。だが、ルターはそれを公衆の面前で焼却したため、1521年に破門された。
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1530年には、ルター派信仰告白アウクスブルク信仰告白」が発表された。それはルターの影響を受け、プロテスタントの最初の組織神学書「神学要義」(1521年)を著していたメランヒトンの起草になるものである。
その後、ルター派はカール5世との2度にわたる戦争を行い、1555年に和議が成立した。