Replica of Noah’s Ark opens in Williamstown, Ky.
理性VS.信仰――装いを新たにした古い宗教 より
南北戦争の結果、勝利した北部でも敗北した南部でも、それぞれの地で発展してきたキリスト教が、さらにその性格を強化する方向へ進んだ。南北戦争前、南部のキリスト教は、北部の古いタイプのキリスト教と同質化しつつあった。つまり、教会とコミュニティがほぼ同義であるような、純粋で、超正統的で、偏狭なプロテスタント信仰である。やがて南部人は、あの痛ましくも気高い幻想に耽るようになると、その立場を明確にするため、これまで以上に熱心に教会へ通うようになった。改定された賛美歌や新たに設置されたステンドグラスでは、キリスト教のイメージやテーマに、南部人のイメージやテーマを融合した歌詞や絵が採用された。こうして、南部の白人の宗教文化は、南部諸州をまとめる下部組織と化した。信徒は、超自然現象に頼り、奇跡的な新生や、最後の審判の日やその後の最終的勝利を期待した。不都合な事実(奴隷制度は悪であり、南部諸州の離脱は破滅的な過ちだった)を直視するのではなく、自己正当化と相手の否定に陥った。そのため南北戦争で敗北すると、
大多数の南部白人は、(第二次世界大戦後のドイツや日本のように)深く反省して平和主義者になるどころか、むしろ怒りを持続させた。その結果、かつてのピューリタンにも似た中世的なキリスト教を信奉するようになった。
一方、北部人は、南北戦争の勝利により、神は自分たちの味方だと確信に、絶えずつきまとううぬぼれをさらに高めた。
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現代社会学の重要な著作、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(邦訳は大塚久雄訳、岩波書店、1989年)は、アメリカの宗教の宗教的側面にはあまり関心を寄せていない。ヴェーバーの考え方はこうだ。プロテスタントが持つ気質は、たまたま熱意や勤勉といった性質とみごとに一致する。そうした気質がちょうどいい時期に現れ、同時期に登場した市場経済に見合うヨーロッパ人やアメリカ人を作り上げた。誰もが同意するように、20世紀以降の現代社会はもはや、かつてのような宗教的な後ろ盾がなくても繁栄を続けていける。宗教の超自然的な部分は、たわ言としていずれは巣てられる。つまり、資本主義と親和性の高いプロテスタント神学が、近代的合理主義へと進化したのだ。
しかしアメリカでは、というよりアメリカだけ例外的に、合理主義は、殺到する新たな文化になじめない無数の人々から本能的に忌避された。当時は、風変わりな海外の芸術や思想、ジャズ、映画、放縦な性的関係、人種間の平等、女性の参政権、あるいは、創世記の記述とは相容れない科学など、新奇な文化や思想が流入していた。こうして現代派が勝利を高らかに宣言しても、魔術的思考を熱心に信奉する人々は降伏しようとせず、むしろ当初のプロテスタントやピューリタンのような態度に出た。つまり、退廃したエリートたちから頑固な狂信者として非難され、その時代遅れの信仰ゆえに迫害されればされるほど、信仰心を極端にまで高めていったのである。