じじぃの「カオス・地球_385_街場の米中論・第6章・リンカーンとマルクス」

リバティバランスを射った男 (The man who shot) Liberty Valance ジーン・ピットニー

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9BYbJaX5kGA


アメリカとマルクス

2022-11-13 内田の研究室
「ロンドンに切れ味のよい政治記事を書く男がいる」ということが評判になり、当時ニューヨーク最大の発行部数を誇った『ニューヨーク・トリビューン』の編集長ホレス・グリーリーがロンドンのマルクスに特派員のポストをオファーした。経済的に窮迫していたマルクスはこの申し出を受け入れ、1852年から61年までの10年間に400本を超える記事を書き送った。いくつかは社説として掲載された。扱ったテーマは英国のインド支配、アヘン戦争アメリカの奴隷制度などなど。ニューヨークの知識人たちは南北戦争直前の10年間、ほぼ10日に1本ペースでマルクスの状況分析を読んでいたのである。あまり言う人はいないが、実はマルクス南北戦争前の北部の世論形成に深く関与していたのである。

戦争が始まると、奴隷解放を社会的公正の実現と評価する「48年世代」は当然北軍に身を投じた。64年のリンカーン再選の時、第一インターナショナルは祝電を送り、リンカーンはこれに「アメリカ合衆国はヨーロッパの労働者たちの支援の言葉から闘い続けるための新たな勇気を得ました」という謝辞を返している。これだけの縁がありながら、今アメリカ政治を論じる人たちのうちでマルクスの関与に言及する人はほとんどいない。二度にわたる「赤狩り」(一度目はミチェル・パーマーによる、二度目はジョセフ・マッカーシによる)によって、アメリカ史からマルクスの痕跡はあとかたもなく拭い去られてしまったからである。

先日西部劇映画の政治性を検証するというテーマで授業をした。その時ジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを射った男』を観た。東部のロースクールを出たばかりの青年弁護士ランス(ジェームズ・スチュアート)が西部でタフな野生の男(ジョン・ウェイン)と出会って、成長を遂げるという物語である。映画の中に「どうしてあんたみたいなインテリが西部に来たんだ」と問われて、ランスが「ホレス・グリーリーの『青年よ、西部をめざせ』というスローガンに感化されて」と答える場面があった。マルクスアメリカに呼び込んだグリーリーは「リバティ・バランスを射った男」を西部に送り出してもいたのである。「アメリカは深い」と思わず嘆息を洩らした。
http://blog.tatsuru.com/2022/11/13_1041.html

街場の米中論

【目次】
第1章 帰ってきた「国民国家」時代の主導権争い
第2章 自由のリアリティ
第3章 宗教国家アメリカの「大覚醒」
第4章 解決不能な「自由」と「平等」
第5章 ポストモダン後にやって来た「陰謀論」時代

第6章 「リンカーンマルクス」という仮説

第7章 国民的和解に向かうための「葛藤」
第8章 農民の飢餓
第9章 米中対立の狭間で生きるということ

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『街場の米中論』

内田樹/著 東洋経済新報社 2023年発行

疫病と戦争で再強化される「国民国家」はどこへ向かうのか。
拮抗する「民主主義と権威主義」のゆくえは。
希代の思想家が覇権国「アメリカ」と「中国」の比較統治論から読み解く。

第6章 「リンカーンマルクス」という仮説 より

リンカーンマルクス

そのアメリカ(自由と平等の葛藤)でも社会的平等の実現が政治的急務だと考える例外的な人たちが存在していました。彼らの話をしようと思います。

建国から70年ほど経った頃、ヨーロッパからアメリカに大量の移民が流入してきました。大きな波があったのは1948年です。1848年というのはヨーロッパ各国で市民革命が起きた年です。フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアハンガリー、各国で市民たちが参政権憲法制定を求めて立ち上がりました。「諸国民の春(Printemps des peuples)」と呼ばれる一大事件でした。それによってウィーン体制は瓦解しました。

でも、市民たちの戦いはほとんどが反動的な政府によって暴力的に弾圧されました。そして、多くの知識人、自由主義者社会主義者たちが官憲の手を逃れて祖国を離れ、英国、アメリカ、オーストラリアなど新天地に新しい活動の場を認めました。彼らは、「48年世代(Forty-eighters)」と呼ばれます。彼らの最も多くが向かったのはアメリカでした。1853年の1年間だけでドイツ、オーストリアからアメリカに渡った移民が25万人という統計がありますから、その勢いが知れます。
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「48年世代」は南北戦争が始めると、リンカーンの「奴隷解放」の大義に共鳴して北軍に加わりました。その中に1人印象的な人物がいます。ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(1818-1866)です。マルクスエンゲルスの古くからの研修者であり、『ドイツ・イデオロギー』の執筆に協力したこと、『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』の寄稿を依頼したことで知られています。

ヴァイデマイヤーはプロイセンの軍人でしたが、48年革命ののちに司直の手を逃れて51年にアメリカに移住しました。53年にドイツ系移民たちを集めてアメリカ最初のマルクス主義組織であるアメリカ労働者同盟(American Workers League)を立ち上げます。
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カール・マルクスエイブラハム・リンカーンが同時代人であり、2人の間に交流があったことはあまり知られていません。『シェーン』のところで触れたホームステッド法をマルクスは「コミュニズムの先駆的携帯」として高く評価していました。マルクス自身も「ホームステッダー」としてテキサスに入植する計画を持っており、1845年にはその手続きまで始めていました。48年の革命のせいでマルクスのテキサス移住計画が流れましたが、場合によっては「テキサス人マルクス」が存在した可能性もあったのです。
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1864年リンカーンの大統領再選を祝って、第一インターナショナルは祝電を送りましたが、電文を起草したのはマルクスでした。その一月後、駐英アメリカ大使がリンカーンからの謝辞を第一インターナショナルに伝えました。その中で大使はこう書いています。

  「アメリカ合衆国は、奴隷制を維持しようとしている叛徒たちとの現在の戦いにおいて求められているのは人間性大義であると考えています。アメリカ合衆国はヨーロッパの労働者たちの支援の言葉から闘い続いるための新たな勇気を得ました。」

アメリカ史を一国史として詠んだ場合には、たぶんリンカーンマルクスの関わりや、「48年世代」の南北戦争における役割は見落とされてしまうでしょう。僕が読んだ範囲では、アメリカの政治史を論じる人たちの中で「48年世代」やマルクスの関与を高く評価する人はほとんどいません。アメリカの歴史の転轍点に「共産主義者」がかかわっていたなどということを認めたくないのかもしれません。でも、実際にはヨーロッパ大陸と新大陸の間には一貫して活発な交流があり、その交流から19世紀のアメリカ社会において「平等」という新しい政治的は台が前景化することになったという歴史的事実は見落とすべきではないと思います。

マルクスをロンドントゥパインに選んだホレス・グリーリーは19世紀アメリカで最も影響力のあったジャーナリストの1人ですが、僕は思わぬところでその名前を耳にすることがなりました。『リバティ・バランスを射った男』のなかです。

弁護士のランス(ジェームズ・スチュアート)が西部の町の人に「どうして東部の坊ちゃんがこんなところまで来たのか」と訊かれた時に、「ホレス・グリーリーの『若者よ西部に向かえ。そこが真の目的地だ』という言葉に背中を押されて」と答えたのです。
マルクスアメリカの世論形成に呼び込んだ人物が、同時に「リバティ・バランスを射った男」を西部に送り出していたというところに、僕はアメリカ文化の複雑さと奥行きを感じます。