じじぃの「神話伝説_129_神の存在理由・普遍的な愛」

Cain is Satan's Son 動画 YouTube
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祈りの手

『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』 フランチェスコ・アルベローニ/著、大久保昭男/訳 草思社 1999年発行
神の存在理由 (一部抜粋しています)
もし、キリスト教が姿を消す運命にあるとしたら? すでにそのプロセスが始まっていると考える人もいる。今世紀に、科学的な理性が、その内部から価値観に関するどんな概念をも排除してしまったのである。全体主義の強力なイデオロギーが、宗教の地位を奪い、完全に根絶やしにしようとして、キリスト教的な慈愛や普遍的な兄弟愛、階級間・民族間の連帯、愛といった概念が決定的に凋落したことを宣言したのである。たとえ、これらのイデオロギーが凋落したにしても、キリスト教の教義を受け入れている人、なんらかの形でキリスト教の信仰を積極的に実践している人は、すでにほとんどのところで少数派になっている。さらに、全西欧において、生存競争、あるいは闘いとしての人生という考え方が公然と支配している。したがって私たちは、価値観や愛と憐れみの道徳が、市民生活のなかでわずかな権利しかもたないような世界で生きることになるかもしれない。
ところが、実はまったくそうではないのである。今日、全体主義が信奉されていた時代のように、階級闘争や民族間の戦争が歴史を裁く最高の判事であると考えるものは一人としていない。経済的競争や生存競争のなかで、唯一の判断基準がただ勝利することであり、生き残ることだけであると主張し、兄弟愛や連帯感の宣言は、敵対者をあざむいたり弱体させるための策略であると述べる者は一人としていない。また、人口増大や、エネルギー資源や食糧資源の現象にともなって、強者は己の生存のために弱者を容赦なく追放する権利があるというような人もどこにもいない。逆に、慈愛や普遍的な愛、憐れみや相互扶助といった言葉は、いまでは以前よりもはるかに普及している。誰もこれらの言葉を口にすることを恥じることはない。
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フロイトはあるすぐれた著作のなかで、幼児期の私たちが、力強い保護者としての父親の風貌に寄せる安心と信頼へのノスタルジアとしての宗教を説明している。旧約の神が家父長的父であり、激しやすく誇大妄想的長老であるとするなら、福音書の神はやさしく愛にあふれ、息子たちの友人になった父親の表現である。それは、家族生活の教化と洗練、及びより進んだ個人化の産物なのである。そして、キリスト自身は、さらに友愛的であり、憐れみ深いのである。邪気のない母親のように、やさしくにこやかで善良なのである。こんなにも親しみ深く、こんなにも寛容で、人間に対する攻撃心をまったく欠いた神に、どうして絶体的な完全な信頼を寄せないでいられるだろうか。
この神は、自然の残忍で非情な暴力の否定、あるいは全面的なアンチテーゼではないだろうか。政治的・社会的生活を支配する力の横暴と覇権への対抗者ではないだろうか。そうであったからこそ、多くの人々が旧約の神をなにかまったく異なるものと考えるようになったのである。
もう一方の神は、グノーシス派の人たちが考えたように、悪魔である。そこで、旧約と新約の聖書間の統一を再構成するために、神の本性を少なくとも二重化するか、あるいは三重化し、ゾロアスター教の残滓であり、悪の教訓をになう悪魔の風貌をそこに付け加えなければならなかったのである。
その後、父なる神は厳格と正義であり、キリストは苦悩と憐れみであり、悪魔は悪意と狡猾さであり、子供を抱いた聖母マリアはやさしさであるという万神殿(パンテオン)をつくりあげることで、民衆の魂のなかに、生きた宗教のなかに、聖母マリアがとけこみ一体となったのである。かつて、どんな哲学が、こんなにも根本的な相違を融合させることができただろうか。いかなる神学が、神について、あるいは善悪について合理的な論議を試みることができただろうか。力、苦難、悪意、愛などの要因は、民衆のキリスト教においては、それぞれ分離されており、絵画作品のなかで別個の風貌をもち、考えられる論理的な統一はないままに位格を与えられているのである。
もし、聖家族が存在しなかったら、この現実世界は品格あるものになっていただろうか。いったい私たちの文明は存在していただろうか。知識においてさえ、進歩はなかったのではないだろうか。
もし、なにがよりすぐれているのか、なにが良くてなにが悪いのか、どの方向が完成に向かっているのかわからなかったら、どのようにして現実世界を改善していけばよいのだろうか。知ることにおいて完全なものは神であり、望ましく完全なもの、つまり道徳の領域で完全なものも神なのである。もし、最高に望ましいものが人であり、父であり母であり、心をいやしてくれる人があり、友人であるとするなら、どうして神がそうでないはずがありえようか。
とにかく、これが私たちの歴史だったのである。フランス革命ソ連共産主義、ナチズムの場合のように、西欧の文化があまりにもこの歴史からかけ離れたとき、なにかが崩れさり、それに押し流されたのである。今日においてなお、私たちの道徳や文明のもっとも実り多い部分は、このような慈愛にあふれた表象や理念のなかにその目をおろしている。明日どんなことが起こるのかわからないが、こういった伝統が生きつづけることなしには、より良い、より晴朗な世界を思い描くことは容易ではないだろう。